『聖獣学園』を思い出す 『処女の泉』

この有名な作品を見ると、やはりキリスト教的倫理の強さにあらためて驚く。

原田真人監督の映画『わが母の記』で、主人公の父親は、娘が見に行った映画の題名が『処女の泉』と聞き、「ピンク映画か!」と叫ぶ。

それほどに明治以降の日本において、処女性は重要な道徳になっていた。

だが、ルイス・フロイスの記録を待つまでもなく、近世までの日本で、女性の処女性は重要な道徳ではなく、宮本常一の説によれば、つい最近まで西日本では、女性は結婚前に世間を経験し、いろいろな社会を見ることが常だったとされ、処女は「当たる」と言って結婚相手としては忌避されたとのことだ。

日本の社会で、一夫一婦制と処女性が問題にされるようになったのは、明治以降の中流家庭のことで、上流も下層も、そんなことはまったく問題にされていなかったのである。その証拠に、古代の天皇家において、天武天皇は、自分の姪に当たる女性二人と結婚し、世継ぎの天皇を作るなど、近親婚は普通のことで、西欧的、キリスト教的道徳とは大きく異なるものだったのである。未開的といえばそれまでだが。

つまり、江戸時代までには存在しなかった「処女信仰」が井上靖というインテリ家庭に入り込むほど、昭和時代ではキリスト教的倫理感は有力になっていたのである。

『処女の泉』のラスト、わが子の処女の娘を犯して殺害した連中を殺し、その現場に行って娘の死体を見たとき、父親は言う、

「神よ、なぜこんなことをあなたは見ておられたのですか」と。

映画『聖獣学園』で、学園の神父で悪の限りを重ねた渡辺文雄も言った、

「アウシュビッツで、広島で長崎で、あなたはなにをしたのか、見ていて何もしなかったではないか、神は死んだのだ!」と。

多岐川由美が裸になるだけのこの映画(実は吹替だが)を見たとき、これはすごいと思った。

『処女の泉』の筋はあまりも有名なので、書かない。だが、問題はなぜイングマル・ベルイマンはこのような単純な筋の映画を作ったかだろうと思う。

それは、最後の父親のマックス・フォン・シドーの台詞のように、「第二次世界大戦の惨劇に対して神はなにをしたのか」だと思う。

戦時期には、ドイツにいて、ナチスに思い入れていたというベルイマンにとって、戦後明らかにされたナチスのホロコーストは自己も含めて許せないものだったと思う。

『第七の封印』の米ソの原爆戦争の恐怖感と合わせ、ベルイマンの思想がよくわかる作品である。

横浜シネマリン

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コメント

  1. 弓子 より:

    タイトルじたいが口にも出せないのってありますが、
    このタイトルも目にしただけで女性として恥ずかしかったです。

    著名な女性のエッセイで厳格な親に
    「昼下がりの情事」の映画を
    観にいく許可をもらう際、タイトル聞かれて
    言った途端に難色示され閉口した。
    と書いてありました。

    D、ディの「情欲の悪魔」 ってタイトルも凄いですね。
    原題は「愛してくれないなら放っといて」だそうですが
    「情欲」って言葉が入ると、何だか生々しいです。

  2. 『情欲の悪魔』は、ジャズシンガーのルース・エッテイングのをモデルにした映画で、見たいと思っているのです。
    彼女はトーチ・シンガーの開祖と言われていますが、トーチ・シンガーとは、切々と泣くように歌う歌手で、ハンカチを手にもって立てて、まるでトーチのようだったのでトーチ・シンガーと呼ばれたのです。一緒のカマトト歌手ですが。

  3. 弓子 より:

    ルース・エッティングの名前も
    トーチ・シンガーの名前も初めて知りました。

    ハンカチは、ハンカチでも
    悔しさのあまりくわえて引っ張る。
    なんてのはないですね。 冗談です。

    カマトトといえば
    昔のテレビで、番組中、クラブ歌手の役の
    コニー・スティーブンスの歌い方や
    「避暑地の出来事」のサンドラ・ディなどが
    チラッとよぎりましたが
    フランス映画では、私の薄い知識では
    カマトトのは、思い浮かびません。

  4. 弓子 より:

    〉トーチ・シンガーの「名前も」

    ではなく「言葉も」でした。

    確かめないで投稿する悪い癖がでました。
    失礼しました。

    貴ブログは、
    知らなかったことが満載なので楽しみに拝見させて頂いてます。
    いつもありがとうございます。