『姿三四郎』の映画化の過程

1943年の黒澤明の『姿三四郎』が非常に出来の良い映画であることは間違いない。なにしろ、公開当時に、あの増村保造が5回見たというのだから、ただ事ではない。

ただ、黒澤の自伝のようなもの『蝦蟇の油』には、この富田常雄の小説の映画化権利の取得については、きわめて変なことが書かれている。それは、大映や松竹も映画化を申し込んできたが、富田常雄の奥さんが黒澤明の名を憶えていて、東宝にしたというのだ。

確かに、現在では「世界の黒澤」だが、1943年当時、黒澤明は、東宝の無名の助監督にすぎない。あえて言えば、前年に情報局国民映画脚本募集に『静かなり』が当選したことぐらいだろう。富田の奥さんは、そんなことまでも知っていたような映画マニアだったのだろうか。

私は、黒澤明が、黒澤勇氏の息子と知り、許可したというのが本当だと思う。

黒澤勇氏は、秋田から出てきて陸軍体操学校の教師になった。だが、学歴も伝手もない黒澤氏が陸軍内で出世することは不可能だった。そこで彼は、上司だった日高藤吉郎氏に従って陸軍を辞めて、日高氏が作った日本体操学校と日本体育会に入る。

日高氏は、藤吉郎という名でもわかるように、一種の虚業家で、年齢をごまかして陸軍に入り西南戦争の従軍したという、軍事オタクだった。そして、推測すれば西南戦争で、日高氏は、政府軍の農民兵の肉体的脆弱さを知ったに違いない。当時、食べものから幼少時からの肉体訓練が全く異なっていた武士と百姓では体の出来が違ったと思う。

そこで、日高氏は、普通の人間の肉体を訓練し、強壮な兵隊を作るために日本体操学校を作り、黒澤勇氏も従い、ナンバー2なったのである。だから、黒澤明が生まれた場所は、当時体操学校があった東大井の学校の宿舎だった。ここは国道の建設で移転したので、今はない。

この日本体操学校は、様々な変遷があり、現在の日体大になるが、その目的は「オリンピックで金メダルを取ろう!」ではなく、「強い兵隊を作ろう」だった。

そして、この日本体育会は、体操学校のPRとして様々なイベントをやっていて、中には柔道の模範試合もあった。富田常雄の父親は、講道館初期の名人の一人だったので、こうした模範試合イベントを通じ富田常雄と黒澤勇氏は、知り合いだったと思う。

だから、「あの黒澤勇氏の息子が監督するならOK」というのが権利獲得の真相だと思う。

ではなぜ、そのことを隠すのだろうか。黒澤明は、この父親のことをよく思っていなかったので、嘘の映画化の過程を書いたのだと思う。

この黒澤勇氏は、大正3年に体育会と体操学校を首になってしまう。その理由は、2年に開かれた「大正博覧会」への出展で、大赤字があり、経理上の不正があったのではないかとの疑惑で警視庁刑事の取り調べを受けたことだった。これは新聞にも出ているが、結局は不起訴になる。

ここでおかしいのは、体育会の名誉総裁だった閑院宮家の家令も警視庁の取り調べを受けていることだ。戦前は、皇族や軍人を団体の長として仰ぐことがあったが、あくまで名誉であり、名のみのことに過ぎない。その宮家の家令が警視庁刑事の取り調べを受けたというのはただ事ではない。推測すれば、宮家の経理上の問題を体育会のイベントの赤字に付け替えたといったことがあったのではないかと私は思うのだ。というのは、黒澤勇氏は、会を首になった後も、実は会からイベントの企画等の業務を受けていて、会とは良好な関係にあったことだ。本当に問題があったのなら、会は黒澤勇氏とは関係を断っているはずだからである。だから、勇氏の首は別の理由だったのだろうと思う。

さらに、戦後黒澤明は、1960年の黒澤プロの第一作として『悪い奴ほどよく眠る』を製作している。社会的問題に関心のない黒澤が汚職を題材としたのは非常に変だが、また異常に力の入った作品になっている。これは妾の子の三船敏郎が、汚職の罪を着せられて自殺した父親の復讐をする話で、これは黒澤の父親の事件ことのように思えるのである。

そして、黒澤は晩年の『乱』の製作時、

「私にはぜひとも作りたい話があるが、それを作ると自分は良いとしても、子や孫にまで類が及ぶかもしれないのでできないのだ」と弁護士の乗杉純氏に言っていたそうだ。

これは、閑院宮家との問題を示唆しているのではないかと私は思っている。

単純に偉い人の話は簡単に信じてはいけないということである。

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