谷崎潤一郎の名作『春琴抄』で、去年上演されたが、なんとなく見逃したので、今回は注意してチケットを手に入れた。
演出のサイモン・マクバニーは、以前村上春樹の小説を基にした『エレファント・バニッシュ』がとても素晴らしかったが、今回も近年これほどに知的な芝居はまずない。
ここまでイギリス人にやられては、「番町で目明き盲目にものを聞き」ではないが、日本の演出家は立つ瀬がない。
彼は、谷崎のみならず、文楽、歌舞伎、舞踊等の日本の伝統芸能の手法を縦横に駆使して劇を組み立てる。
しかも、谷崎の世界に行くのに大変に周到な仕組みを用意する。
まず、ヨシ・笈田の自己紹介に始まり、谷崎潤一郎が大阪の春琴と佐助の墓を詣でるところにつながる。
さらに立石涼子が、京都の古スタジオで『春琴抄』の朗読を録音することで物語に入って行く。
このくらいの手順を踏んでやっと谷崎の世界に入るのは、幕末から明治の時代を再現するに当っては今や当然の手順である。
主人公の春琴は、深津絵里だが、子供時代は人形で、大きくなってからも別の女優が「人形振り」で演じ、深津は人形使いとなって演じる。
言うまでもなく文楽の手法である。
佐助は、若い時は、チョウ・ソンハで、この人は新国立の『夏の夜の夢』のパック役でしか見ていないが、ここでもとても良い。
佐助と春琴は、大店の娘と丁稚だが、春琴が盲目となったことから、佐助は春琴の導き手となり、次第に深いつながりを持つ。
驕慢な春琴の性格から次第にサド・マゾ的関係になる。当然にも、二人には子も生まれるが、すぐ農家にやられてしまう。
そして、生来の音感の鋭さから、春琴は三味線の師匠となり、多数の弟子を持つ。
ある日、ひどくバカな女弟子が来て、教える際に春琴の怒りが爆発したとき、深津は人形役の女を押し退け、初めて自分が春琴そのものになる。
この怒りが爆発する深津の演技は大変見事だった。
音感が異常に優れていた春琴は、ひばりを飼い、その鳴き声を愛していた。
そのひばりを空に放つときの羽音も、和紙を振るわせる手法で表現する。
51歳で心臓発作で春琴は死ぬが、盲目の春琴と同化するため自らの目をつぶし盲目となった佐助は、その後も長生し、83歳で亡くなったという。
本条秀太郎の三味線も素晴らしい。
この小説は、戦前から何度も映画化されているが、この劇化は、その中でも大変優れたものとして残るに違いない。
世田谷パブリック・シアター