新国立劇場で、ベケットの『ゴドーを待ちながら』を見た。
演出は、円の森新太郎、ウラジミールは橋爪功で、エストラゴンは、元コント・レオナルドをレオナルド熊とやった石倉三郎。
石倉三郎は、コントをやる前は、俳優を目指して東映東京撮影所の大部屋役者だったのだから、決して意外ではない。
話は、あまりにも有名な1本の木が立っている田舎の道で、取り留めのない、非劇的なやり取りをしつつ、ゴドーを待っている二人である。
この劇は、唐十郎、別役実はもとより、つかこうへいや鴻上尚史に至るまで、日本の現代の演劇に大きな影響を与えてきた。
別役の1本の電信柱も、ここから来ている。
そして、ゴドーとは何か、これについても様々に論じられてきた。
私は、以前佐藤信の演出、石橋蓮司と柄本明の出演のを見たが、このときはゴドーは、すでにもう来ることはなくなった戦争と革命の不可能性のように思えた。
だが、今回は、ゴドーとは、いつ来るかは分からないが、人間に必ず来る「死」の象徴のように思えた。
今回の芝居のできは、前夜が初日で、この日も1幕目は、橋爪と石倉の呼吸が合わず、正直に言って面白くなかった。
だが、二幕目は大変面白く、劇の意味が良くわかった。
舞台に1本だけ立っている木は、まるで大震災の後の陸前高田市で、1本だけ残った松のように見えた。
新国立劇場