テネシー・ウィリアムズの名作『欲望という名の電車』が、松尾スズキの演出、秋山菜津子の主演で行われた。
主演の秋山のブランチの相手役の粗暴な男スタンレーは、池内博之。
『欲望という名の電車』のブランチと言えば、文学座の杉村春子のが有名だが、そのほかに東恵美子、水谷良重、岸田今日子、大竹しのぶ、中には栗原小巻や樋口可南子らも演じているのだそうだ。
美しく、高貴な家の生まれで、過去の記憶に生きているが、実は無残な現実に責められているという、矛盾そのもののブランチは、多くの女優にとって演じたいものなのだろう。
テネシー・ウィリアムズは、日本では大変人気の高い劇作家で、大学の英文科の卒論でも大変多いのだそうだ。
彼は、基本的には新派悲劇的な作家だが、悪くいえば少女趣味的、よく言えば詩的な表現はすごいと思う。
唐十郎に多くの影響を与えているし、清水邦夫の傑作『朝に死す』は、テネシー・ウィリアムズそのものである。
この劇の昭和28年の日本での初上演のとき、冒頭でスタンレーら男が、「ボーリングに行こう」と言う。
だが、当時日本にはボーリング場は、神田の東京YMCA会館にしかなく、観客は意味が分からないので、「遊びに行く」と台詞を変えたという笑い話がある。
多分、当時アメリカに、このように白人の中にも大きな貧富、階級、文化の差異があるとは実感できなかっに違いない。
ブランチが、盛んにスタンレーのことを「ポーランド人」と言うのも、19世紀の終わり近くになり、アメリカに大量に移民してきた、東欧の人間に対する、古くからのフランス移民の末裔らしいブランチの家の者が持つ差別意識である。
さて、このように高貴な家の美しい女性の悲劇に、マーガレット・ミッチェル原作の映画『風と共に去りぬ』がある。
スカーレット・オハラの悲劇も、初めはアシュレー、さらにはレッド・バトラーが自分に惚れていると思い込む、「恋愛妄想」がその始りである。
この『欲望という名の電車』のブランチの悲劇も、最初に恋した男が、実はゲイだったという落胆から説明されているが、多分に恋愛妄想的であり、映画で主演し、高い評価を得たのは、どちらもイギリスの女優ビビアン・リーである。
そして、ビビアン・リーは、晩年はほんとうに統合失調症になってしまったのだから、まさに適役だったわけだ。
彼女は、1960年代にテネシー・ウィリアムズ原作の映画『ローマの春』で、若きウォーレン・ビィーティーと共演して恋に落ちるが、彼に捨てられて、精神に変調をきたし、最後は結核で死んでしまう。まさに美人薄命である。
だが、もともと統合失調症の素因が十分にあったことは、それ以前の映画でもわかる。
スカーレットが狂気には至らず、ブランチが入院に至るのは、南北戦争と太平洋戦争という背景の時代の差だが、スカーレットはタラの大土地を失わなかったのに対して、ブランチは故郷の財産のすべてを失くしていることが大きいのだろう。勿論原因は、彼女の衣装や装飾品への浪費に違いない。
この劇を見て、「やはり名作だな」と思うのは、作者テネシー・ウィリアムズのブランチの追い詰め方のすごさである。
松尾スズキの演出は、悲劇と言うよりは、喜劇的に作っていて、なかなか新鮮だった。
秋山菜津子は、1991年にケラリーノ・サンドロビッチの愚劣な芝居『カラフルメリーでおはよう』に出ていて、唯一光っていた以来の贔屓であるが、ブランチを演じるほどになったのには驚く。
ここでは、ときどき台詞がぶりっ子声になるのがわざとらしく見えるときもあったが、全体にとても良かった。
劇中で、「ロングのように云々」と男が言うのは、ルイジアナ知事で、ポピュリストで有名だったヒューイ・ロングのことである。
パルコ劇場