銀座の連れ込み宿

引き続き、笠原和夫の本に書かれていた、彼が戦後働いていたという大日方伝がやっていた、米軍人相手のホテルについて書く。
大日方伝は、日活、松竹の二枚目で、戦時中は東宝で『燃ゆる大空』などの戦意高揚映画でも大活躍した。
だが、戦後は、時代の変化に上手く対応できず、役に恵まれず、副業としてラブ・ホテル(当時の言い方ででは連れ込み宿)をやっていたそうだ。
彼と同様の役者に岡譲二もいて、こうした戦前の男性的な二枚目は、戦後の三船敏郎や鶴田浩二らの台頭によって、どこか古くさく、陰気に見えてしまったのだろう、落ち目だった。
笠原和夫によれば、有名俳優が副業をしていたのは、別に珍しいことではなかった。
だが、当時は公にするのは、まずい雰囲気があり、銀座のはずれの新橋近くにあった小ホテルも、老夫婦をそこに住まわせ、彼らの名義で大日方が経営すると言うものだったらしい。

彼がそこで働くようになったのは、ゴルフ好きだった笠原の父親と大日方伝が、ゴルフ・クラブで知り合いだったからで、当初は世田谷の大日方の家の書生をした後、銀座のラブ・ホテルの支配人になる。
戦後、朝鮮で米軍と北朝鮮軍が激しく戦っているときで、一時帰休の若い兵士で大変儲かっていた。
勿論、彼らの相手をする日本人女性がいて、彼女たちのドラマが、この本の半分である。

同性愛の相手をしている若い美男子と知らずに愛している女、また戦闘で半身不随になった息子のセックスを頼んできた高級軍人夫婦の話は、まるで映画『ジョニーは戦場に行った』みたいである。
朝鮮戦争も休戦協定が結ばれ、急に客は減り、女の何人かは、米兵と結婚との名目で渡米するが、勿論ハッピー・エンドにはならない。
いつの時代も、戦争でも、下層の男女には、そう簡単には幸福は来ないのである。

笠原もホテルをクビになり、やはり父親のゴルフ場知り合いだった東横映画の吉田信の紹介で同社に入る。
吉田信は、前に書いた三木鶏郎が最初にNHKに行ったとき、三木に音楽作りを勧めたNHKの音楽部長で、その後は東横映画に入っていて、古川ロッパの日記にもマージャン仲間として何度も出てくる。

笠原和夫が、東映に入社した経緯も複雑で、はじめは宣伝部で、作品の梗概作成や宣伝文句を考えていて、いずれ助監督にするとの約束だったが、大泉撮影所の助監督部の反対で駄目になる。
そこで、第二期ニューフェースとして、高倉健らと一緒に入社し、その後東映が二本立て興行を始めて、製作本数を急増させたのに伴い、念願の脚本に転向したのだそうだ。
まことに、有為転変のあった時代と言うか、変動の激しい世だったわけである。

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