今週、フィルムセンターの大映特集で、『情熱の人魚』と『母紅梅』を見た。
これが、どちらも高級なものと通俗的、大衆的なものとの対比を主題にしていて、大変興味深かった。
1948年の『情熱の人魚』は、東宝から山口淑子を迎えての音楽映画で、クラシックの作曲家だった水島道太郎は、場末のキャバレーのピアノ弾きの仕事を得て、キャバレーに行くと、そこに歌手の山口淑子がいて、水島は、彼女の才能を認めて訓練し、大劇場で歌うまでにする。
と、そこに山口の元の愛人でヤクザの山本礼三郎が現れ、山口の大劇場への転身を妨害する。
だが、山本が脅しに使っている拳銃が本物ではないことを見破られ、山口と水島は大劇場に行くことになる。
ここでおかしいのは、大劇場での歌曲が正しく、キャバレーのダンス音楽のルンバ等は低俗でくだらないものとされていることである。
本当でしょうかね。
また、大映の母物映画3作目の1949年の『母紅梅』でも、主人公三益愛子らがいるサーカスのジンタは低級なもので、娘の三条美紀がミッションスクールで歌う『サンタ・ルチア』等の歌曲は高級とされている。
高級音楽が『サンタ・ルチア』なのだから笑ってしまうが、ここの歌曲とジンタとの間には、音楽的に区別があるだろうか。
村松友視ではないが、高校野球が高尚で、プロレスが低級ということはないように、歌曲とジンタとの間に差別はないのである。
つまり、ジャンルに貴賎はなく、その個々のジャンルの中の作品について優劣があるのである。
あるのは、クラシックにも良いものと大したことのないものがあり、大衆音楽にも優れたものとひどいものがあるということである。
2作品の音楽は、どちらも小津安二郎で有名な斎藤一郎で、普通のできの音楽だった。
この2本の映画、内容的には大したものではないが、『情熱の人魚』では、山口淑子、水島道太郎、山本礼三郎はもちろん、平井岐代子らの脇の連中までが、これは嘘の映画だが、それを承知で楽しでいる気分が分かって面白かった。
それができるのも、出演者に確かな芸があり、上手いからである。
それは、『母紅梅』でも同様で、三益愛子、岡譲司、三条美紀、伊沢一郎、潮万太郎らが皆上手いので嘘なのに、十分に見られる映画になっていた。
フィルムセンター