森繁の意味

中山千夏の本『蝶々にエノケン 私が出会った巨星たち』(講談社)を読んだ。
非常に面白く、舞台の内側から見た戦後芸能史であり、大変正確な観察に基づいたものである。
ただ、一つだけ丸山定夫のことを二村定一と誤記している箇所(P166)があり、これは編集者の校正ミスだろう。

ミヤコ蝶々、エノケン、ロッパ、美空ひばり、三益愛子のそれぞれと共演し、各自への観察が鋭いが、一番興味深いのは、森繁久弥とその劇団に触れた箇所である。
中山千夏も、森繁も互いに相手を嫌い、合わなかったようだが、その基は、森繁とその集団が持っていた、ある種のセク・ハラを期待するような雰囲気だったと、千夏が書いているところである。

森繁の「お尻触り」は、有名で、その被害に合わなかった女優はいないそうだが、
千夏は「そうしたものを期待する雰囲気が、どこかでその集団にはあり、それが同時に太陽のようだった」とも書いている。
これは森繁久彌の本質と、彼が戦後日本の芸能界で最高位に君臨した理由を的確に言い当てていると思う。

森繁の演技が光ったのは、映画『夫婦善哉』に代表される、ダメ男の色気である。
この女性に頼りつつ、しかし自分のしたいことを実現してしまう男というのは、まさに戦後に初めて現れた存在で、男女同権となった民主社会の男女関係の象徴のように思える。

それは、エノケンやロッパ、さらに柳家金語楼と言った戦前、戦中までの芸能人にはありえなかった、男の生き方であり、戦後に初めて現れ、現在も続く日本の男女関係だろうと思う。
ロッパ日記を読むと、最も西欧的であったはずのロッパは、身内の劇団や家族の者には大変な暴君だったようだ。
それは、下町出身のエノケンにはなかったと思うが、女性と同等の関係というのは、彼らは一生持ち得なかったものだったと思う。
ロッパは森繁が大嫌いで、「嫌らしさで人気を得ている卑怯者」と書いているが、これは森繁の本質をよく描いている。

こうした女性への関係は、現在の人気者である、たけし、さんま、タモリ等にまで受け継がれているもので、彼らは一様に女性に対して親切である。
某作家の言うごとく、
「愛は消えても、親切は残る」からであり、
女性はそこをよく見ていて、記憶しているからだろうと思う。

昨年亡くなった立川談志が言うように、森繁久彌こそ、日本芸能史上最高の役者、歌手であるのは、こうした時代的意味を体現しているからであると私は思う。

中山千夏の才能にあらためて驚いた1冊である。

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