先日、『ぞめきが消えた夏』についてひどい芝居だと書いた。
だが、場内は満員、それに働いているスタッフが妙に生き生きとしていて、嫌々やっているようには見えなかった。
また、音楽もかなり使いながらも、現在の多くの劇団のようにミュージカル志向性がまったくなく、変に真面目なのだ。
これは相当に何かあるな、と作者草部文子氏の経歴を調べてみた。
すると謎がとけた。
彼女は、青年俳優座にいて、演劇の勉強を始めたとある。
劇団青俳は、劇団青年俳優座で、所謂俳優座、文学座、民芸の三大新劇の次の、青年座、新人会、俳優小劇場らと並ぶ名門劇団だった。
岡田英次、木村功をはじめ、高原駿雄、清村耕二らの人気俳優がいて、意欲的に新作もやっていた。
蜷川幸雄、蟹江敬三、あるいは森達也も,青俳の研究生がスタートである。
そのように華やかな劇団だったが、時代の流れで、岡田、蜷川、真山知子、蟹江らが抜け、さらに木村巧が死んで倒産してしまった。
大学の劇団の後輩が、その頃の研究生で、話を聞いたことがあるが結構大変だったようだ。
さて、草部女史がすごいのは、糸居五郎に師事していたこともあり、演劇からラジオのDJに方向を変えたことであろう。
今や糸居五郎と言っても誰も知らないだろうが、1960年代は、福田一郎、高崎一郎らと並ぶ有名DJだった。
だが、非常にうるさいしゃべりで、大声で曲名等を連呼し、自分一人で受けにいっているような泥臭いスタイルで、私は到底好きになれなかったが、人気はあったようだ。
その後、彼女は、DJをもとにシナリオを書いたりした後、タレント養成所を始め今日の成功に至ったようだ。
多くのタレントを抱えているが、その名を聞いたことのない人ばかりだが、仕事先は地方のAM、FM局、あるいはテレビのナレーションなどである。
なかなか目の付け所がすごい。
地方であろうがAM,FM局、ケーブル等の放送局は多数あり、そこにはタレントの需要はあるはずだ。
大手、有名どころが多分供給しないであろう、そうした局にタレントを配給するのは、相当に頭の良い「ニッチ産業」である。
さて、もう一人、老舗組織が壊れて、というより別のところと統合されたとき、弾かれた連中がいた。
連合赤軍となった、永田洋子らがいた、社学同マルクス・レーニン派である。彼らは、1964年頃は東京の社学同(社会主義学生同盟)の中心だった。
だが、様々なグループの緩い連合体だった東京社学同が、関西社学同と一緒になる時、純粋中国派だった永田洋子らは、追い出されてしまった。
そこで、永田らは、共産党系の中国派等と一緒になり、京浜安保共闘を作り、それがさらに関西社学同から追い出された過激派と統合して連合赤軍になった。
その後の活動と崩壊は、誰もが知っていることだろう。
老舗組織が壊れると、その後に変な連中が生まれるという事例である。
最後に、なぜ草部女史は「反戦愛国」なのか、それは彼女の祖先が神社の宮司であることに起因しているようで、これも矛盾していないわけだ。
いろいろな人がいるものである。