昨日、佐藤利明さんと小津安二郎の『東京暮色』の評価についてやりとりしましたが、平成9年1月に、このブログで書いていたので、再掲します。以下が、当時の文章で、そのコピーです。
先日、如月小春が『俳優の領分』の中で、賞賛していたので、急に見直したくなり上大岡のツタヤで借りてきて見る。
多分、映画館で2回、テレビで1回見ているので、4回目だと思う。
「どこが、失敗作か、発見しよう」として見ていたが、どこにも問題はない。
傑作であることを再び確信した。
この映画が、小津安二郎自身も気に入らなく、批評家の評価も低いのは、全体を覆う暗さが第一であり、ともかく救いがないからだろう。
暗いというなら、成瀬巳喜男の『浮雲』はもっと暗い救いのない話だが、成瀬なら仕方がなく、許せる。
だが、松竹大船の盟主たる小津安二郎に、こう暗い映画を作られては、松竹映画は成立しない。
明るい作品を作るべきだと皆思い、小津自身も考えて作られたのが、最後の作品『秋刀魚の味』ではないだろうか。
名作と言われる『秋刀魚の味』と『東京暮色』の構図は、とてもよく似ている。
だが、世界の明度は全く異なる。
要は、この『東京暮色』が小津の失敗作といわれて来たのは、日本映画界が小津に期待し、要求していたものに対し違和感があったことの現れにすぎず、作品としてはすごいと思う。
この作品のすごいところは、多くの小津映画でもそうだが、人物の対話が、完全にちぐはぐになり対話にならず、また各シーンでの課題も、その場面では解決されずに次に移行してしまう、その展開のドライさにある。
この映画の問題の一つは、主人公有馬稲子を孕ましてしまう学生田浦正巳の造形にあると思う。
妙に弱弱しく、女々しい若者なのだ。
当時、すでに太陽族が出ていて、松竹でも木下恵介は『太陽とバラ』で太陽族を批判的に扱っていた。
だが、ここでの田浦正巳や高橋貞二、須賀不二夫らには、太陽族のような野性やエネルギーはなく、ただただ怠惰な存在に描かれている。
彼らの描き方は、むしろ戦前の軟派学生の姿のように私には思える。
有馬の姉で、夫の大学教授信欣三と上手くいかなくなって笠智衆の実家に戻っていているのが原節子。
彼女が、父親の笠智衆を捨てて部下の男と満州に逃げ、その男とも死別して帰国し、中村伸郎と五反田で雀荘をやっている母親山田五十鈴との、再会と対決のシーンはすごい。
十数年ぶりの再会に満面の笑みをたたえる山田五十鈴に対し、思いつめて厳しい表情の原。
そして、堕胎手術に向かう有馬の後ろ姿から切り替わり、笠の家の廊下をはいずって来る原節子の赤ん坊のカットのショック。これほど残酷なショットのつながりを私は見たことがない。
家に戻った有馬に突きつけられるお見合い話。
何でこんなに残酷に有馬をいじめるのだろうか。
多分、小津は、当時、日本映画界の中心になっていた石原裕次郎と日活映画に見られる、戦後世代の無法な跳梁跋扈を許せなかったのだろう。
彼らを否定することが、この映画の主題だと思う。
だが、ここで有馬が執拗に山田五十鈴に「私はお母さんの子なの?」と迫るように、有馬稲子に象徴される戦後世代の性的放埓さは、実は戦前の山田五十鈴の性的不道徳に起因しているのだ。
「すでに日本社会の性的道徳の退廃は、戦前の昭和10年代から始まっていたのだ」と、この映画で小津は言っているように私は思える。
有馬の葬式の後、山田の雀荘に寄った原は言う。
「秋ちゃんが死んだのは、お母さんのせいです」
そして、山田は、中村伸郎から望まれていた室蘭行きを了承する。
中村は言う。
「北海道も満州に比べればどうと言うこともない。一人より二人で行けば暖かいや」
大人の世代も実にわびしく、苦しいのである。
そして、有馬ら戦後世代を、彼女の自殺で否定したところで、笠智衆、そして小津安二郎らの戦前世代に残っているのは、笠が一人で家にいる孤独である。
そこに来る家政婦は、未だご健在の長岡輝子さん。
このラストシーンは、小津安二郎の最後の映画『秋刀魚の味』で再度繰り返される。
松竹で「小津は二人いらない」と言われて、成瀬巳喜男が松竹を出されたように、「日本映画界に成瀬は二人いらない」と言うのが、この作品の評価が低い理由だと思う。
コメント
子供は好きだが、赤ん坊は嫌い
指田さん、ども。「東京暮色」は、小津映画としては特異かもしれませんが、あなどれない。好きです。
>この映画の問題の一つは、主人公有馬稲子を孕ましてしまう学生田浦正巳の造形にあると思う。
田浦正巳は、おそらく「成瀬映画の森雅之」のパロディ?なのだと思います。里見の甥なのに、なぜ小津映画に森雅之が一度として出ていないのか? これは、ぼくのかなりお気に入りの?疑問で、おそらく小津が上原謙もほとんど出演させないように、美形二枚目への小津への嫉妬でしょう。
>何でこんなに残酷に有馬をいじめるのだろうか。
小津は、ホームドラマのあらゆる局面、冠婚葬祭を描きつつ、しかし、ひとりの赤ん坊も、画面に登場させていません(多分)。赤ちゃん誕生はホームドラマの定番なのに。子供は好きだが、赤ん坊は嫌い。それが小津。
だから、有馬稲子は自らの「母体」を罰しなければならないのです。
森雅之と上原謙が出ないのは
美形二枚目への嫉妬というよりも、この二人が自分のやり方で演技をするからだと思う。
森雅之はもとより、上原謙も、意外に演技を工夫している人でしたから、小津安二郎にとっては、そういう役者より、小津の言うとおりに演じる笠智衆のような役者が良かったのだろうと思います。
中村伸郎は、「さらりとね、ただ思いを込めてね」と小津に言われたと如月小春の本『俳優の領分』の中で言っています。この本は、とても面白い本で、才能ナシだった如月の中では一番評価できるものだったと思います。