伊福部で思い出したが、伊福部や早坂らは戦後、彼らの戦中期の民族的な音楽は戦争協力的だとして批判的に見られていたようだ。
戦後は、12音など前衛的な音楽こそ新しい時代の音楽として過大に評価された。
昨年6月にも書いたが、フィルム・センターで見た豊田四郎の映画『せきれいの曲』の主人公轟由起子の恋人で、山村聡が演じる作曲家は、多分山田耕筰のことのらしい。
彼は轟と別れ欧州留学して帰朝し、西欧風の新進作曲家として売り出すが、戦中期は軍に積極的に協力し「すめらみくに」と言った曲を書く。
彼は、初心を忘れず時局に迎合しない轟を発表会の歌手から下ろしてしまう。
山田耕筰の戦時中の軍への迎合は相当なものだったらしい。
最も、映画と実際が異なるのは、映画では戦後山村聡は落剥してしまうが、山田は戦後も指導者として、むしろ進歩的文化人に見られていたことだ。
今井正の映画『ここに泉あり』では、群馬交響楽団に協力・理解する指揮者として出てくる。このとき、彼は左足が麻痺して、杖をついている。山田は脳梗塞で倒れたのだが、随分早く倒れているわけだ。
戦時中の山田については戦後、音楽評論家山根銀二が批判したが、その山根も山田と同じ協会にいたことが暴露されて山田に逆襲された。
山根も、戦後は共産党に近い進歩的評論家として活躍したが、同じ穴の狢であったわけだ。
コメント
音楽と政治
ここのサイトによると、日本の音楽社会のなかでアジア・太平洋戦争の推進に率先して邁進した人物といえば、
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