日本人の母とアメリカ人の父との間に生まれたヘンリー・ミトワを描くドキュメンタリーで、主に晩年のことで、戦前、戦中はウエンツ瑛士、余貴美子らによって演じられるドラマになっている。監督は『ヨコハマ・メリー』の中村高廣で、11年ぶりの新作。父はユナイト映画の支配人、母は新橋の芸者で、横浜の根岸に住み幼児時代は大変裕福な生活だったようだ。だが、父はアメリカに帰ってしまい、仕送りも滞るようになり、成人すると日米関係が悪化している時代で、ヘンリーは「敵性外国人」として特高に付けられるようになる。苦労してなんとかして渡米し、父にも再会するが、落ちぶれていた。ユナイトは、チャップリンやダグラス・ヘアバンクス、グリフィスらが設立した会社で、経営はあまり安定的ではなかったのだ。
1941年12月、太平洋戦争が始まると、日系人は収容所に入れられ、ヘンリーも幾つかの収容所を転々とする。彼は、アメリカでピアニストの女性と結婚しており、戦後、やはり望郷の思いから来日する。
そして、茶道、生花等の世界で、海外へ紹介する仕事をするようになる。その中で、水上勉や千宗室らとも親交を結ぶようになる。こうした彼の戦後の日本での活躍については、戦時中に「母を捨てて米国に逃げた贖罪感」があるのではとナレーションも言っているが、多分あっているだろう。
それは、晩年に彼が童謡『赤い靴を履いた女の子』を映画化したいと奔走したことともつながっているようだ。彼が書いたシナリオもあったが、それは元大映の脚本家中村努が作中で述べているように「ヘンリーさんの生涯を映画化した方がはるかに面白い」というものだったようだ。
晩年は、京都に妻や子供と住み、陶芸の他、天龍寺の禅僧として活動し、93歳で亡くなる。
誠に多彩で、多くの趣味のあった人で、あえて一言でいえば、「変な外人」だろう。
その変な外人E・H・エリックの先輩で、学校は横浜のセント・ヨゼフ・カレッジだった。
よくできた作品だが、戦前のレコード蓄音機の置き方が間違っていた。
蓄音機は、トーンアームをSPレコードに静かに落として再生するものなので、トーンアームは、必ず右手になるように蓄音機は置いたものである。
向こう側、つまり左側にトーンアームが来るように置いたら、針は裏側になるので、それを盤面に落とすのは非常に難しくなってしまうものだから。
スタッフ、キャストもSPはおろか、LPも知らないのだなと思った次第。
横浜ニューテアトル