やはり電蓄だった 『夫婦善哉』

必要があって、1950年に公開された豊田四郎の『夫婦善哉』を見る。
船場の大店の跡取息子なのに、だめ男の森繁久彌と北新地の元芸者で、しっかり者の淡島千景の名作である。
ほとんど、この二人だけの芝居が多いが、豊田なので、脇役もよく、森繁の父の小堀誠、番頭の田中春男、淡島の父の田村楽太、母の三好栄子、元朋輩の浪花千枝子や萬代峰子などの名優が出ている。大阪の地蔵盆の盆踊りなども出てきて、浪花の感じがよく出ている。

時代はやや不明だが、昭和7年頃で、この時期は満州事変後の「事変景気」で、日本全体の景気が良かった時代で、淡島がヤトナとして出る座敷は、上田吉二郎らで、土建屋のような連中である。戦前の日本で一番景気が良かったのは、昭和7,8年と言われ、俗にエロ、グロ、ナンセンスの時代でもあった。
こうした時代もよく描いていると思う。
森繁と淡島は、最初はおでん屋(関東煮と言っている)、次はサロン柳蝶というカフェを開くが、ここに置いてあるのが電蓄だった。
美術が、伊藤熹朔で、この時代のことは熟知しているので、縦型の大きな電蓄を置いてある。
蓄音機というとラッパ型と誤解する人が多いが、日本でも昭和初期には国産機が出来ていて、こうした風俗営業の施設は、新し物好きなので、最新型を置いていたのである。

森繁は、料理好きで、しかし淡島の父が作る「十銭天ぷら」も愛好する男で、当時としては非常に珍しい、物事にこだわらないフェミニズムの男だった。
古川ロッパは、戦前に元劇団員でもあった森繁久彌が大嫌いで、
「彼のような卑怯な男が人気ものになっている・・・」と世相を嘆いていたが、それはまさに日本の戦後社会だろう。

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