『金閣寺』

宮本亜門演出、森田剛主演の三島由紀夫の『金閣寺』を見てあらためて分かったのは、市川崑監督、市川雷蔵主演の映画『炎上』がいかに素晴らしい作品だったかと言うことである。

この『金閣寺』は、一言で言えば、小説の朗読 + 大駱駝艦 である。
原作の小説を読む以上のものは何もない。

小説『金閣寺』を映画化するとき、監督の市川崑は、「これは名作で名文だが、ここままでは映画にはならない」と大変悩んだそうだ。
そのとき、プロデューサー藤井浩明が、三島の取材ノートを入手してきて、彼の華麗な表現の裏には、主人公溝口をめぐる厳しい現実があり、そこからシナリオを作ったそうだ。
それは、主人公と父親との関係であり、日本海に象徴される貧困だった。
市川作品は、徹底的なリアリズム作品になっていて、主人公が金閣寺を放火する心情がきちんと分かるものになっていた。
市川作品の他、1976年には高林陽一監督で、日本ATGで『金閣寺』が作られている。
これは市川作品よりも、原作の美学を尊重した、映像的に大変凝った映画だったと思う。
いずれにしても小説の吃音の主人公溝口の疎外感、現実への隔絶感などは、文学として読めば素晴らしいが、演劇、しかも大劇場での表現は大変困難である。
一幕と二幕との幕間で、森田ファンの女性たちは、「暗くてよく見えないわね」と盛んに言っていた。
まったくそのとおりで、これほどつまらない、エンターテイメントとして面白さのない芝居もまず珍しいだろう。森田剛ファンの期待を裏切るのはまずいのではないか、と私も心配してしまう。

なぜか、そこにはどこにもドラマがなかったからである。
主人公の森田君を初め、大東俊介、高岡蒼甫の3人の若者は、それぞれ際立った性格を与えられているので、まあ劇がある。
だが、周囲の父親の高橋長英、母の岡本麗、老師の瑳川哲郎、茶道の師匠の中岡典子等に何も役作りが見られず、それぞれが勝手にやっている。そこにあるのは、劇に与えられた役ではなく、それぞれの役者自身だった。それでは劇にはならず、少しも面白くないのだ。

宮本亜門演出の劇は結構見ている。
インドの神話を基にした1994年の品川のアートスフィアでやった『月食』、やはり太平洋の伝説をヒントにした1995年の『マウイ』、いつだが忘れたが大地真央主演の『エニシング・ゴーズ』も宝塚劇場で見た。
それらは、『エニシング・ゴーズ』を除けばオリジナル・シナリオで、『月食』は橋本治、『マウイ』は戸井十月と、演劇の素人に脚本を書かせたのが特徴で、めちゃくちゃなできだった。宮本亜門に言わせれば、演出でどうにでもなるから、脚本などどうでも良いのだろう。今日では誰も思い出さないレベルの芝居だった。

さて、今回は三島由紀夫の原作がきちんとある。
だが、原作には三島由紀夫の他、セルジュ・ラモットの名もあり、さらに台本として伊藤ちひろ、となっている。しかも翻訳常田景子である。
これは、一体どういうことなのか。日本語の小説をわざわざ外国語にし、それを翻訳して台本化させたのか。何で日本文学を翻訳しなければならないのだろうか、不思議と言うしかない。
私も原作を読んだのは、40年以上も昔なので、細部はよく憶えていないが、三島由紀夫の原作から大きく逸脱し、あるいは加筆した部分はないように思う。
その意味で、この外人原作と翻訳は不要だったはずで、神奈川県民の一人としては、このようなスタッフへの無駄使いは許せないところである。

いずれにしても、全体を言えば、小説の朗読+大駱駝艦 である。
主人公溝口の現実への障害、具体的にはセックスの場面になると現実から拒否されることを、金閣寺を象徴する大駱駝艦のクネクネ踊りとホーミーで表現するのだが、大変気持ちが悪い。
こういうものを好む宮本亜門のセンスを疑うしかない。
「やはり彼は変態なの?」と隣の席の女性は言っていたが。
私は、宮本が変態だろとホモだろうとどうでも良い、いい芝居を見せてくれればである。

他の役者では、柏木役の大東と鶴川役の高岡はよくやっていたと思う。
森田剛も、彼の内面がまったく分からないのは演出の問題で、彼自身はそれなりにやっていた。
問題は母親の岡本麗らで、映画『炎上』の北林谷栄と比較するのは可哀想というものだが、昭和20年代に腰の曲がっていない老婦がいただろうか。高橋長英の父親(『炎上』では浜村純)も、こんな善人だったら、主人公はこんなにも追い詰められなかっただろう。
ともかく、ここには役作りというものがまったくなかった。宮本の演出家としての能力不足と言うしかない。
神奈川芸術劇場 大ホール

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