当然と言えば当然

4月21日、日曜日の東京新聞に、松本清張の代表作の一つ『日本の黒い霧』の文庫本版に「お断り」を入れることが出ていた。

お断りを入れるのは、伊藤律が、ゾルゲ事件発覚させた特高のスパイだったとの記述の部分で、伊藤の遺族からの出版差し止めの訴えがあったためだ。

伊藤律スパイ説は、戦後彼が日本共産党で幹部として活躍し、その後共産党の内部対立で党を除名された時に、彼の旧悪を暴く証拠として喧伝された。

また、作家尾崎秀樹も『生きているユダ』で、伊藤律スパイ説を執拗に展開し、私も読んで納得したものである。

その後、伊藤は亡命先の中国から帰国し、この問題については、多くを言わずに死んでしまった。

だが、伊藤律スパイ説については、その後渡部富哉よって反論する本が出されており、ほぼこちらの方が正しいという世評となっている。

その意味では、今回の措置は当然といえば、当然で、同書には、「下山貞明国鉄総裁の他殺説」もあるが、これもほとんどトンデモ本に近い内容である。

日本の映画界では、松本清張は、数多くのヒット作を提供した「宝の山」であり、彼を批判することを憚る雰囲気がある。

松本清張の小説やノンフィクションの多くは、要約すると「諸悪の根源は、アメリカ占領軍」になってしまい、これも一種の自虐史観とも言える。

歴史教科書の改訂を目指す連中が言う「自虐史観」は、賛成できないが、清張の小説に見られるように1970年代まで日本に存在したことは事実である。

それは、戦後のアメリカによる占領への反感、屈辱感が基になっており、松本清張にみならず石原慎太郎の作品にもよく見られるものである。

しかし、今や冷静に松本清張の著作を評価すべき時になったと私は思う。

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