「1964年東京オリンピックの頃」

昨日、戸塚の上矢部地区センターで、「1964年東京オリンピックの頃」をした。
この日は、近所の幼稚園、保育園の運動会と重なったとのことだったが、20人以上の方が来てくれた。
例によって映像、音楽を使ってだが、今回は初めて写真も使った。
それは1932年のロサンゼルスオリンピックについての説明で、この時、ボートのエイトの選手として田中英光が参加し、彼はその時の女子選手との淡い気を後に小説『オリンポスの果実』として書き、青春小説の名作としてとして今も読まれている。
その時の、モデルになった高跳びの選手相良八重の写真があったので、まずこれを見せた。
次は、1936年のベルリンオリンピックの「前畑がんばれ!」を女の子がそっくり真似をする「子供オリムピック」を掛けた。
そして、1940年、昭和15年の東京オリンピックを本当にするつもりだったことの証明として、古川ロッパの『東京オリムピック』
この時のマラソンコースとして作らたのが、第二京浜国道であり、鶴見のめがね橋などは、それを想定してしゃれた設計になっている。

そして、1964年の前に、1960年代の特徴として「若者時代」の例として、大島渚が作った1958年の松竹の「ご挨拶映画」の『明日の太陽』の一部を見た。
十朱幸代の説明で、若秩父、長嶋の写真が出て「新人の時代」として、山本豊三、桑野みゆき、九條映子、杉浦直樹らが出てくる。
NHKの『昭和の記録』の昭和37年から、堀江謙一の太平洋ヨット単独横断と映画『太平洋一人ぼっち』のこと、ファイティング原田のフライ級タイトルマッチのKO勝ち、そしてこの年のツイスト・ブームを見た。
実は、1960年代は何と言ってもモダンジャズの時代で、石原慎太郎、大江健三郎はもとより、倉橋由美子、さらには井上光晴までジャズ喫茶に行った。
その頂点としての1964年7月の「世界ジャズ・フェスティバル」から、マイルスの『ソー・ホワット』を掛ける。

そして愈々、市川崑の『東京オリンピック』になり、日本中のニュース、文化映画のスタッフ総動員した作品であり、技術の粋を集めたものであったこと。
時間がないので、開会式、自転車競技、マラソンだけをまず見た。
開会式の最後の聖火ランナーは、最近亡くなられた坂井義則で、実にフォームがきれいだった。
八王子付近で行われた自転車競技では、沿道の観客が最高、モンペ姿のおばさんたち、田舎風の服の子供、そして藁葺き屋根の農家の軒先を通過する自転車の群れ。
市川崑の喜劇的センスが最高に発揮されたのがマラソンで、水分補給地点で現れる選手たちの個性、道路にへたり込んで水を要求し、そしてついには脱落してしまう選手など。
市川崑は、人間がまじめにやればやるほど必ず出てしまう喜劇的な表情をきわめて上手く撮っているが、その辺が逆に担当大臣だった河野一郎には、スポーツ選手への冒涜のように思われたのだろう。
公開後に「芸術か記録か」の論争になる。
この映画は、1965年3月に公開され12億円の歴史的大ヒットになるが、その前年の1964年秋にヒットしていたのが、吉永小百合と浜田光夫の『愛と死を見つめて』だった。
山本学・大空真弓のテレビ版とを写真で比較すると、見えなくなる目は映画では左なのにテレビでは右になっていて、本当は左なので、映画の方が正しいこと。
この「病院の外の時間を3日間ください」のシーンを上映する。これは、後に映画にもなった高野悦子原作の『20歳の原点』にも影響している。
2年後の吉永小百合と渡哲也の『愛と死の記録』では、吉永の勤務先がレコード屋のこと、渡が原爆病で死んでしまい、吉永も後と追って自殺する。
監督蔵原惟義の1963年の傑作『憎いあンちくしょう』から大阪と博多、さらにラストの阿蘇のシーンを見て、いかにして蔵原の画面の躍動感がなくなったかを検証した。
最後は、『東京オリンピック』の最後の閉会式のシーンで、ここはいつ見いても感動する。
時間がなくて、『愛と死を見つめて』の齋藤武市は、「渡り鳥シリーズ」の監督で、意外な気がしたが、本来彼は小津安二郎の助監督であり抒情的な作風の『名づけてサクラ』の予告編を上映することは時間がなくてできなかった。これを作ったのは神代辰巳であることは有名である。
いずれにしても、1960年代の混沌とした時代、社会だったことはわかっていただけたと思う。
お見えいただいた方、大変ありがとうござました。

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