日本人が本を買って読むようになったのはつい最近だ 映画の中の貸本屋

先日、神奈川の県立図書館を考える会の定例会が終わり、いつもの懇親会で林秀明さんと福富洋一郎さんと飲んだ。その時、福富さんが、以前ある自民党の幹部議員に図書館のことについて説明されたそうだ。すると彼は、

「本は買って読むものだ」と言われたそうだ。

だが、日本人が本を買って読むようになったのは、実はつい最近のことなのである。

そもそも、江戸時代に『源氏物語』や『古今集』が本として売られていただろうか。

古代から、紙が貴重で非常に高価だった当時、本は持っている方からお借りして全文を写すものだった。

中には大名のお姫様のように、絵入りの写本を嫁入り道具として持って婚家に行くという例のあったようだが、ごく一部の最上層の人々のことである。

『源氏物語』などは、性教育的な意味もあり、ごく上層の階級では娘の嫁入り道具としたこともあったようだ。

では、普通の都市の庶民はどのようにして文字に接し、本を読んでいたのだろうか。

貸本である。

1959年の川島雄三監督の日活映画『幕末太陽伝』に出てくる。品川遊郭の女郎左幸子のおそめと心中させられてしまう小沢昭一の金蔵は、貸本屋で、様々な本を背負って相模屋にやってくる。滝沢馬琴から柳亭種彦に至る江戸文学は、すべて貸本によって庶民にまで普及したのである。

さて、明治になり、近代化で西洋の製糸業と印刷術が入ってくるが、すぐに貸本が廃れたわけではない。それは、戦後もずっと残っていたことは、1955年の今井正監督の映画『ここに泉あり』にはっきりと出てくる。

高崎の市民オーケストラ(現在の群馬交響楽団)の小林桂樹が名演技を見せるのがマネージャーの井田亀夫である。その非常な貧乏所帯の中で、妻千石規子は、貸本屋をやっているらしく、玄関に「貸本」のお札が掛けてある。

内部は見えないが、たぶんこうした零細な貸本屋は、古本屋と兼業だったはずで、横浜でも磯子の浜マーケットには10年位前までは、貸本と古本の兼業の店があった。

これはみな経済の高度成長以前のことではないかといわれるかもしれないが、1964年の岡本喜八監督の『江分利満氏の優雅な生活』では、東京郊外の団地の住む江分利の息子は、貸本屋でマンガを借りて読んでいる。

さらに、1970年の増村保造監督の大傑作『やくざ絶唱』では、勝新太郎の妹の大谷直子は、文学少女で、学校では図書館から本を借り、先生の川津祐介にも本を借りに行って川津の部屋でセックスしてわざと処女を捨てる。そうすれば異常に執着する勝新も諦めるからだという。さらに、彼女は町の貸本屋でも小説を借りている。

このように、普通の日本人は本を貸本屋や図書館で借りて読んでいたのであり、本は買って読むものなどというのは、真っ赤なウソなのである。

その後、経済の高度成長からバブル経済の中で、多くの日本人も本を買って読むようになった。その結果、1950年代には全国で3,000軒と、現在のコンビニの数くらいにあった貸本屋は、さらに公立図書館の整備などで急速に減り、私が横浜市図書館の担当部長になった2002年ごろには、300軒くらいになっていた。当時、公立図書館、マンガ喫茶、新古書店が、本が売れない三悪、図書館は無料貸本屋だという愚論が蔓延っていた。林望、猪瀬直樹、楡周平らである。

そこで、私は2002年11月に雑誌『出版ニュース』に「貸与権を整備してレンタル・ブックを」を書き、貸与権を本や雑誌も適用させることで、貸本屋の復活を促し、本が売れるようにと提言したのである。

その通り、著作権法が改正されて本や雑誌にも貸与権が適用されて、作者にも利益が行き、利用者にも便益があるようになった。今、TSUTAYAでやっている「レンタル・コミック」はその成果なのである。

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