『新東宝1947-1961』を見ていたら、羽仁進の『不良少年』の助監督に山本晋也の名があった。
あの山本晋也が、岩波映画にいたことは知っていたが、作品のタイトルでは初めて。
羽仁の映画は、実際に久里浜の少年院にいた少年たちを俳優としたもので、普通に演技させることができず、スタッフが演じて真似させたと言われ、それがドキュメンタリー的なリアリティのある作品になった。
よく考えてみると、この方法はピンク映画でも取られた方法だと思う。
ピンク映画は、普通新東宝の倒産でできたと言われている。
だが、それは小森白、小林悟など大蔵映画になる部分で、ピンク映画に移行したのは、この岩波などの記録やニュース映画等のスタッフもその流れの一つである。
さらに、閉鎖される松竹京都や整理が進行した大映撮影所のスタッフも、その流れの一つだった。
もう一つ言えるのは、当時多数存在した新劇の劇団の役者たちも、野上正義や渡辺護のように、ピンク映画の役者や監督として移行していくのだ。
戦後は、空前の新劇ブームで、俳優座、民芸、文学座の三大劇団やその周辺の劇団の他に、無数の劇団があり、地方から来た役者志望の若者たちを吸収していた。
それも、1960年前後に、映画からテレビへ日本の芸能の中心が移ると同時に、新劇ブームも低下し、そこの連中もピンク映画の俳優となっていくのである。
つまり、多様な原因によって、1960年代を席巻したピンク映画も成立したのである。