先週の4月23日号の「週刊文春」で、三上延氏が、私が2013年に出した『黒澤明の十字架』について触れてくれた。
黒澤明は、身長180センチ以上で、特に身体的異常もないのに、なぜか徴兵されなかった。
彼は、自伝のようなものという『蝦蟇の油』で、20歳の徴兵検査のことを書いている。
そこで、徴兵検査の担当官が父黒澤勇氏の教え子だったので、徴兵を逃れたというのだ。
これは、本当だと思う。
黒澤明が検査を受けた1930年、昭和5年は、世界も日本も、非常に平和な時で、陸軍でも宇垣軍縮が行われ、師団の削減が行われる時代で、お目こぼしはあり得たと思うのだ。
だが、満州事変から日中戦争、太平洋戦争と戦争が拡大する中で、徴兵は過酷となり、ついには43歳まで年齢も引き上げられる。
作家の中野重治も、42歳だったが、徴兵されたが、これは左翼作家への懲罰だろう。
多くの映画評論家の中には、黒澤明が徴兵されなかったのは、この徴兵検査の挿話に示されるように、父黒澤勇氏のお力だと誤解する方は多い。
だが、黒澤勇氏は、明治24年に陸軍を辞めて,日本体育会・日本体操学校の創立に参加した方なのだ。
しかも、勇氏は、今で言えば自衛隊体育学校の教官レベルで、陸軍に影響を及ぼせるレベルの人ではない。
では、なぜ黒澤明は、徴兵されなかったのか。
私は、当時軍需企業だった東宝の力だと思う。
東宝は、社内に航空教育資料製作所という秘密スタジオを作り、陸海軍の注文を受けて、爆撃機の爆弾投下方を映像で説明する「マニュアル映画」を作っていた。
そこは、円谷英二の指導の下、特撮と動画によってパイロットに説明する映画で、全部で50本以上あったのだそうだが、戦後焼却されて現存しているものは1本もない。
撮影の宮島義勇も、「私にも令状が来たが、森岩男さんが、宮島は必要な男だからと言って、私の代わりに玉井正夫君を出すことになった。だが、玉井君も、病弱とのことで即日帰郷となった」と自伝で書いている。
また、石井輝男も、「徴収猶予を2,3回やってくれて、最後は軍の写真班に従事した」と書いている。
「具体的な証拠を出せ」というが、こうした徴兵猶予は、書類として残すはずもなく、またあったとしても、戦後焼却されたはずで存在するわけがない。
私は、黒澤明の徴兵猶予からくる「贖罪意識」は、戦後の作品の中にあると思っている。
映画『七人の侍』は、戦国時代のことではなく、太平洋戦争のことで、従軍できなかった黒澤の戦争参加である。
また、後に『トラ・トラ・トラ』で、黒澤明は、監督を解雇されるが、これも黒澤明の従軍への願望だったと思うのだ。
エルモ・ウィリアムスも言っている「黒澤自身が、山本五十六になったような気持ちがあったのではないか」と。
私は、黒澤明を批難しているのではない。今井正、山本薩夫らの左翼作家が、戦時中の戦争協力を戦後ほとんど作品化していないのに対し、黒澤は自分の「贖罪意識」を映画化したのは、偉いと私は思っている。