フィルムセンターの「逝ける映画人特集」、今日は昨年、高倉健のご逝去の裏でひっそりと亡くなった片山昭彦で、吉宗のご落胤の天一坊を演じる。
この作品を見るのは3回目で、昔々に横浜の大勝館で見て感激し、数年前にCSで見て感動がなく、今度はどうか心配だったが、非常に感動した。
阪東妻三郎のような大きな役者の演技は、やはり大きな画面で見ないといけないことを再認識した。
紀州の山から、片山の天一が、祖母の死の時に、将軍の落胤であることを知らされ、上京して行くが、行列がどんどんん大きくなり、大名行列になるのが凄い。
同時に、日本人の事大主義と言うか、偉い人に弱い心性が表現されている。
そして、ある宿場で、伊賀亮のバンツマが一行にずかずかと乗りこんで来て、「容易に幕府が認める訳がない」ことを言う。
落胆する一行だが、その夜一人で天一は、バンツマノ家に来て、「自分はみなしごだと思って育ってきたので、ともかく父に一目会いたいのだ」と訴える。
翌日、一行が出て行った後、寺子屋で子供たちを教えていた伊賀亮は、子供たち、そして妻の平井岐代子らの歓声に送られて一行を追っていく。
江戸では、幕閣が評定するが、大友柳太郎の松平伊豆守は、「理非を問わず、捕えろ」と命じ、天一坊方の宿には「御用提灯」が押し寄せる。
江戸の郊外に逃げた天一の脇を馬上の人が過ぎていくが、言うまでもなく徳川吉宗の守田勘弥である。
押しよせる取り方に向かって、敢然とバンツマの伊賀亮は、「手柄だ」と言って刀を捨てて縛に付く。
バンツマの芸格の大きさ、庶民的抵抗感覚はさすがに監督の伊藤大輔である。高貴な家で生きていくよりも、普通の人間として生きていこうと片山が、村娘の喜多川千鶴と一緒になっていくことを示唆しているのは、やはり戦後的感覚だろう。
この映画の庶民的感覚は、チーフ助監督の加藤泰通こと、加藤泰の世界として、後に東映で描かれることになる。
西悟朗の音楽が、きわめて的確で驚く。
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