敦煌事件

池部良が亡くなった。森繁久弥、小林桂樹と戦後の東宝映画を支えた主演の男性俳優の3人が今年亡くなった。
池部良の素晴らしさは、今更私が言う必要もないが、やはり一番良かったのは、篠田正浩の『乾いた花』の村木だと思う。
この作品は、篠田監督の現代劇としても、また横浜を描いた映画としても最高の一つだと思う。

さて、池部良の追悼で篠田が新聞に書いていたが、この『乾いた花』を作り出したのが、池部良の「敦煌事件」だった。
敦煌事件とは、1960年、東京宝塚劇場での菊田一夫作・演出の『敦煌』に池部が主演したが、長台詞等がこなせず、1週間で下ろされ、井上孝雄に交代し、井上が有名になった事件だった。
長台詞云々よりも、開演日ぎりぎりまでいつも脚本が出来ず、舞台稽古中の書き直しが常識だった菊田一夫の作劇法にに池部が付いていけなかったのが、多分真相だろう。

そして、この事件の後、不振だった池部に篠田が声を掛けて『乾いた花』に主演してもらい、それが東映のヒット・シリーズ高倉健との『昭和残侠伝』になった。

だが、この敦煌事件は、もう一つの大事件を生んでいる。
松本幸四郎(先代)、市川染五郎・中村万之助兄弟らの幸四郎一門の、松竹から東宝入りの遠因になったのである。
その事情は、千谷道雄の『幸四郎三国志』に書かれているが、劇『敦煌』で池部良が失敗したとき、菊田一夫は、舞台できちんと芝居ができる男優の必要を痛感したのだそうだ。
東宝の女優は、多く宝塚出身だったので、舞台出演に問題はなかったが、男優で舞台の経験があったのは、森繁を除けば、脇役の有島一郎、三木ら喜劇役者で、主演男優は存在しなかった。
そこで、菊田は松本幸四郎に興味はなかったが、若手で人気の染五郎・万之助兄弟を東宝に移籍させたのである。

その後、帝劇も出来、菊田と幸四郎は様々な試みを行ったが、先代の松本幸四郎にとって必ずしも良い成果は上がらず、菊田の死後役10年して幸四郎一門は松竹に戻る。
だが、現在の松本幸四郎の舞台のすべてのジャンルでの活躍を見れば、先代松本幸四郎の「冒険」には大きな意義があったと言うべきだろう。

現在、日生劇場の『カエサル』は、主演の松本幸四郎は歌舞伎、高橋恵子は映画、勝部演之は新劇、渡辺いっけいは小劇場と、様々な出自の役者によって構成されている。
その意味では、役者、俳優の相互交流は、以前と比較にはならないほど大きく進んだのである。
晩年に池部良は、日本俳優協会の会長も務めていたが、そうした俳優間の交流も自分の役割と考えていたのかも知れない。

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