江戸時代の民活事業

都筑の横浜市歴史博物館で行われている、『近世横浜 海岸部の新田開発』展を見に行く。

鶴見の潮田から、横浜駅西口の帷子川河口開発、南大田、蒔田等の大岡川河口、さらに金沢の泥亀、入江新田開発が、古絵図と古文書で展示されている。

私が今住んでいる南区吉野町には、日枝神社と堰神社があり、その名の「堰」とおり、このエリアの埋立て工事の始まりになったところである。
そして、一体誰がやったのか、前から大変気になっていた。

今回見て、横浜の江戸末期の埋立て、新田開発はすべて民間の豪商、豪農の手によるもののだったことが分かった。
横浜でも、幕府が埋め立てたのは、幕末の横浜港開港のための関内周辺だけだった。
そのすぐ近くの蓬莱町等も民間の手で工事されたのだった。

幕府は、こうした新田開発を自らはほとんど行わず、民間の手でやらせた。
勿論、「景気対策としての公共事業」というケインズ的概念がなかったのだから当然でもあるが。

こうした民間による埋め立ては、明治に入っても事情は同じだった。
埋め立て事業が、国や都道府県、市町村の公共団体のものとなるのは、「公有水面埋立法」が制定される大正時代になってからである。
今では、埋め立て事業は、基本的に公共のもので、民間がやるのは、関西空港の整備の際や、東京湾横断道路建設の時のように、第三セクターのような特殊会社によるものだけになっている。

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