自分の考えが他人に伝わってしまう、「サトラレ」安藤政信を主人公にした映画。
この他人に自己の思考がさとられると言うのは、テレパシーや念力であり、こういう能力を持っている人間がいるのは認められる。
だが、この話が根本的におかしいのは、そうした超能力を持っている人間が、実社会で別に特殊な才能を持っているという設定である。
一般的に、ある分野で超人的な能力があれば、その代わりにどこかで他の能力が欠損しているものである。
例えば、新興宗教の創始者は、当然に「超能力」の持ち主だが、大抵は社会的な適応力を欠いている場合が多い。
それが普通なのだが、ここではサトラレが天才的な外科医になっているのは、ズルいと言うべきだ。
また、一番不思議なのは、どういうときに「サトラレ」が起きるのか一切不明なことである。
普通、超能力やテレパシーは、能力者の感情が高まったり、異常に集中したときに起きるもので、この映画の主人公のようにのべつ幕無しにサトラレるのは変である。
その結果、それがさとられなのか、あるいはただの独白なのか分からなくなってしまっている。
筋は同と言うこともないので、映画的表現を取り上げれば、常に音楽が鳴り、クレーンとズームによっていつも画面が動いているのは不快だった。
こういうのを「華麗なる旋律と流麗なカメラワーク」とでも言うのだろうが、私にはただのバカとしか思えなかった。
黒澤明は、「対象が動いていないときは、カメラは動いてはいけない」と言っているが、そのとおりで、ただの対話のシーンでもカメラが無意味に動きまわるのは本当におかしい。
溝口健二のワンシーン・ワンカットを意図しているとすれば、全くの勘違いで、溝口のでは常に緊張感があり、人物をじっと見つめる監督がいた。
ここでは、ただぐるぐる廻っているだけであり、エネルギーの無駄使いに過ぎない。
ともかく、画面に集中し感動する暇がないのである。
監督の本広克行は、「フィックス恐怖症」なのだろうか。
きちんとした構図で役者が演技すると言うことがなく、見ていて表面に流れていくだけなのである。
この映画に描かれたような主人公の「サトラレ」は、本当は自分の心が他人に読まれたと思い込む、一種の妄想患者であり、多分統合失調症の人間だと思う。
そうした恐怖心は、無人島に住む「サトラレ1号」としてのみ描かれたが、それだけ。
2001年の映画で、高松英郎、藤木悠、村松克己らがすでに亡くなっている。
天才外科医の主人公でも救えなかったとすれば、主人公の天才ぶりも大したことがない。
日本映画専門チャンネル
コメント
心療内科カウンセラーとお薬
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テレパシーの存在は あると思います
悪い超能力者も います。
どうしたら いいのだろうか?
宗教で 住職とかに 正義の超能力者とか いるかなぁ?
超能力研究会(名前検討中