『太郎と敏子』


瀬戸内寂聴が、岡本太郎と秘書平野敏子との愛を語る番組が放送された。

岡本太郎と平野敏子を一度だけ見たことがある。
大学に入った1966年の6月頃、清水谷公園にデモの集会に行くと、岡本太郎がいた。
多分、雑誌の取材だったと思うが、岡本太郎の側に若い女性がいて、きれいだったことを憶えている。

番組の冒頭で瀬戸内は、ばらしているが、二人は画家と秘書ではなく、当然にも夫婦関係だった。
瀬戸内は、岡本太郎の母岡本かの子の小説を書くため、岡本のところに行き、二人を見て、「ただの関係ではない」ことを見抜く。
それからずっと二人との付き合いは続き、時には岡本から口説かれることもあったという。

戦後すぐの前衛的な芸術家の集団『夜の会』で平野敏子は、岡本太郎と出会った。
岡本は新進画家、敏子は東京女子大を出て、出版社に勤めたばかりだった。
すぐに結ばれ、敏子は岡本の身辺を手伝うようになる。
当時、岡本は独身で有名だったが、要は自由でいたかったのだろう、勿論敏子以外にも女性はいたようだが。

戦後の日本の経済成長と共に、岡本太郎はさらに大きな作品を手がけるようになる。
1970年大阪万博のシンボル・タワー「太陽の塔」が、その象徴であり、岡本の絶頂時であろう。
だが、岡本は1980年ごろから、パーキンソン病になる。
パーキンソン病は、全身の末梢神経がマヒしてしまう病気で、特に手足が硬直して人形のようなギコチナイ動きになり、、自由が利かなくなるものである。
昭和天皇も晩年に罹ったことで分かるように、主に真面目な性格の男性が罹る病気で、根治する方法はいまだないようだ。

となると派手なパフォーマンスが多かった岡本太郎だが、根は真面目な人で、そのアクションはかなり演技的なものだったのかもしれない。
最後は、ほぼ寝たきりのような状態で、完全に敏子による介護生活になる。
今なら、その介護生活も公開してしまうが、当時は介護状態の人間を公の目にさらすことにためらいがあったのだ。
確かにある時期から、全く岡本太郎の姿が見えなくなってしまったが、その裏には病気があったのだ。

番組でも言われているように、敏子は太郎の母親のような関係であった。
その意味では、岡本太郎は、母の岡本かの子へのマザー・コンプレックスにとらわれた人間に思える。
さらに、なぜ太郎が、敏子を夫婦ではなく、養女にした理由は、太郎の作品の散逸を防ぐためだったそうだが、独身を標榜していた太郎にとって、今更結婚と言うわけにはいかなかったのだろう。
その辺は、随分と自分のイメージに拘った人間であったようだ。
「職業はときかれて、寺山修司」と答えた寺山修司のように、岡本太郎も、「岡本太郎という役」を演じていたのかもしれない。
NHK総合テレビ

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