『技斗番長 活劇映画行進曲』 高瀬将嗣  洋泉社

高瀬将敏と言えば、日活でタイトルのラストで、必ず技斗・高瀬将敏と出ていた方であり、言うまでもなく著者は彼の息子である。

                

この技斗という言葉、スタッフとしての職も、高瀬将敏が作り、会社にに認めさせたものだと言う。1922年に名古屋の博徒の家に生まれた彼は、チャンバラ映画が好きで、家出をして京都に行き、市川右太衛門の右太プロに入り、映画人生を始める。

そこで殺陣師の市川桃栗というバンツマの殺陣を付けていた役者に会い、彼から殺陣を教わり、大都映画などの弱小プロを遍歴する。

戦後の地方廻り劇団生活の後、東映東京を経て、新生日活に入り、そこでアクション映画で活躍する。

この日活がユニークだったのは、石原裕次郎、小林旭の若手スターが、主にアクション映画をやっていたことで、高瀬は彼らや、大部屋の俳優らと共に「技斗部」を作り、器具を会社に揃えさせて、訓練を始めることになる。

小林旭は、すでに何でもできる運動能力を身に付けていたそうで、多くのアクションシーンを吹き替えなして行っていた。

国士舘大(久保新二の国土館大学ではなく本当の国士舘大)を出ていた高瀬将嗣は、父の下で、アクション映画での指導を始める。

その最初は、曽根中生監督の1976年の日活の『嗚呼!!花の応援団』だったが、父の死後は、自分で会社にして、映画、テレビで活躍する。

彼によれば、映画のアクション、つまり技斗は、武道でも喧嘩でもないことで、むしろダンスに近いものとのこと。

その意味では、時代劇の殺陣は、日本舞踊に近いものであることは、黒澤明、五社英雄によって舞踊風の殺陣が否定されている現在でも同様で、多くの歌舞伎役者の殺陣が上手なのは、その性であるそうだ。

バンツマは、近眼でもあり、殺陣のリアリティを出すために、斬られ役に刀を当て来たが、必ず同じ場所に当たっていたこと。

勝新太郎は、相手に絶対に当たらず、逆に華麗な殺陣の市川雷蔵の方が、時として相手に刀を当てていたことなどの貴重なエピソードも満載されている。

実際に徴兵されて戦場の経験のある高瀬将敏によれば、刀は人間の体に簡単に入り抜けるもので、肉体は豆腐のように柔らかいなど、実際の戦場での殺し合いと、戦闘シーンは全く異なるもののようだ。

安倍晋三や菅義偉らにも読んで欲しい本の1冊である。

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