何事でも同じだが、題名が良くないときは、結果は大体よくない。
なぜなら、当事者が問題をきちんと把握していないからである。
イロアセルと聞いて、思うのは、色が褪せるか、イロに焦るだろう。ここでは色が褪せるだったが、結果はきわめて中途半端だった。
ある島があり、そこでは人が話すことが色に変換されて見えるようになっている。
なぜそうなのかは説明されない。
また、ハムスターという携帯コンピューターのようなもので、他人が悪口を言うと島民に分かるようになっている。
そこに、なぜか島民以外の男藤井隆が捕らえられて、島のオリに入れられてしまう。
島の市長は、剣幸で、コンピューター会社の社長ベンガルが下請け企業の花王おさむらと組んで自分勝手なことをしているらしい。
それに対して犯罪者だった女の島田歌穂やスポーツ選手の加藤貴子らが反抗しているとのこと。
「ようだ」とか「らしい」としか書けないのは、どこにもドラマがなく、確たるものがないからである。
作は倉持裕で、鵜山仁の演出をもってしても、どうにもならなかったということだろう。
最後、これまたなぜか言葉が色になることがなくなり、すべては元に戻る。
ええっ、これの一体どこが面白いの?
新国立劇場が、実験的な作品を作るのは悪いとは思わない。むしろ良いことであり、公共劇場としての使命だとも言える。
だが、ここまで内容が不明確なのは、あんまりである。
多分、やっている役者たちも何のことかよく分からなかったと思う。役者が分からないものを見るものが理解できるわけがない。
唯一、劇が弾んだのが、オン・シアター自由劇場以来のコンビのベンガルと花王おさむが掛け合いで台詞を言ったところで、やはりアンサンブルの重要性を再認識した芝居だった。
新国立劇場 小劇場