中野重治も徴兵されていた

横浜山手の神奈川近代文学館で、日曜日まで『中野重治の手紙』展が行われているので、土曜日の朝見に行く。
入口のホールで映画が上映されているので見ると、
それは土本典昭の『悠ぶ・中野重治』で、山本健吉、宇野重吉、尾崎一雄らが、弔辞を告別式で読む姿が映されていた。
1979年のことで、そこには宇野の他、滝沢修、千田是也、嵯峨善兵衛、佐多稲子らもいて、1979年は、まだみな生きていたのだ。

弔辞の中で、文芸評論家本多秋五は、
「戦後、ある評論家がプロレタリア文学運動を批判したとき、高く評価したのが君の『村の家』だった」と言った。
これは言うまでもなく吉本隆明のプロレタリア文学批判の「転向論」のことである。

中野重治は、われわれ反代々木の若者にとっても、共産党文化人の中では最も評価できる存在だった。
『村の家』の他、『梨の花』『むらぎも』等の自伝的小説も抒情的で、文学として高いものだったからだ。

展示の中で、彼も43歳のときの、1945年6月に徴兵されていたことが書かれていた。
「防衛招集」の名目で徴兵され、長野に派遣されたそうだ。
43歳とは、徴兵年齢最高齢だが、それでも徴兵されたのである。
となると、1945年8月に、35歳だった映画監督の黒澤明が、一切徴兵されなかったのは、おかしいのである。
やはり、東宝と軍との取引の結果と見るのが当然だろう。
彼の自伝『蝦蟇の油』の中で、徴兵検査のとき、係官が父親の教え子だったので、丙にしてくれたので、徴兵に関係がなかったと書いているのを信じるのはおかしいのである。

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