石原慎太郎は、ニ回目撃したことがある。
一度目は、テレビの「桂小金治アフタヌーン・ショー」で、1967年頃「慎太郎対全学連」という論争の企画だった。
早稲田に出入りしていた宮原安春の手配下だったと思うが、当時文学部で有名だった女で、今は藤田真人と結婚している福田みずほの引率でテレビ朝日(当時は日本教育テレビ)に行ったのである。
二回目は、1985年に「舞踏フェステイバル」が朝日ホールで行われ、大野一雄の公演が終わったあと、帰りのエレベーターの中で一緒になったのである。
石原慎太郎が、大野一雄の公演に来るなど意外と思われるかもしれないが、1950年代末は、慎太郎も前衛だったので、舞踏の土方巽らとも交友があったのである。
テレビ朝日のときは、慎太郎は椅子に座っていて、こっちはその他大勢で立っている形だった。
当時、石原慎太郎は、参議院議員で、自民党から出ていたので、そのことを変節と言われていた。
彼は、「自民党を内部から変えるために自民党に入ったのだ」と言っていた。
だが、私は、「それは左翼の世界のトロッキストの『加入戦術』みたいなもので、ミイラとりがミイラになるようなものではないか」と言ったが、誰にも理解されなかった。
これは、欧州の共産党の中の、反スターリンのトロッキー派の連中が、自らの勢力を増やすために、まずは社会民主主義の党に入り、そこで同調者を増やして行こうという組織戦術である。
日本でも太田竜、西京司などの、所謂4トロ(第4インターナショナルを称えたので、4トロと呼んだ)の連中も、日本社会党に入党して活動したが、特にどうということもなかった。
結局、これらはうまくいかず、社会党内の一部の過激派となって終わったのである。
だが、石原慎太郎が、結局は「ミイラ取りがミイラになった」、つまりは自民党の中では孤立し、最後は議員辞職するしかなく、都知事という迂回はあったが、結局は「暴走老人」になったのは、事実である。
二回目のときは、エレベーターの中だったので、彼の姿がよくわかった。
感想は、「ひどく背が高く、かっこいいなあ」というものであった。
1950年代の、『危険な英雄』などの彼の主演映画を見ても、大変に良いルックスであり、弟の石原裕次郎よりもはるかに二枚目である。
だが、石原慎太郎には、石原裕次郎にある、お坊ちゃんの「愛嬌」や「素直さ」と言ったものが欠け、若くして有名人になった人間の傲慢さのみが見えると思う。
そこが、彼の根本的欠陥だろうと私は思う。
石原慎太郎の政治的意味については、新しいサイト、指田文夫の「ジャンルを越えて」に書きましたので、ご参考までにお読みください。