現代企画室から、ナイジェリアの大スターで、1997年に死んだフェラ・クティの伝記『フェラ・クティ』が出されたことを記念するトークイベントがあったので、行く。
お話は、北中正和さんで、会場に行って最初にご挨拶するが、数年ぶりである。
ある方をご紹介いただくが、その人は電通にいたこともあり、1991年の「ウォーマッド横浜」の仕事をしたこともあるとのこと、世界は狭いものであると思う。
ウォーマッド横浜は、電通や実際に実施していた関係会社にとっても重要なイベントだったらしく、毎年夏に向けてスケジュールを空けている人がいると聞いたことがある。
嘘でも嬉しいことだったが、もう20年以上前のことなのだ。
正直に言って、1980年代の後半から、中村とうようさんに「フェラ・クティはすごい」と聞かされ、CDも2、3枚買った。
だが、「本当にすごいのか、よくわからなかった」
今回、北中さんから、音源はもとより、映像を見せてもらい、彼の凄さがわかった。映像は、1本以外はすべてYouTubeなのには驚くが、実に便利な時代になったものである。
ナイジェリアでの晩年の時代のライブも、やや衰えた時代のものだが、YouTubeに出ているのだそうだ。
彼はミュージシャンではなくパフォーマーだったのである。
ナイジェリアの首都だったレゴス近くで生まれたフェラの父は牧師で、母親は女性地位向上に努めた運動家という、大変進歩的で裕福な家庭だったそうだ。
彼は、1958年にロンドンのトリニティカレッジに入り、そこでジャズ、特にマイルス・デイビスが好きになり、自分のバンドを作る。
もちろん、彼はトランペットで、当時の演奏も披露されたが、ドナルド・バードやフレディー・ハバートのような感じだった。
そして、1963年にナイジェリアに戻り放送局勤務の側ら、演奏活動をするが、それはハイライフという西アフリカ全般に流行していた音楽のスタイルだった。
ハイライフは、その名のとおり、上流階級的雰囲気を持った音楽で、ジャズとラテンの中間のようなのんびりとした音楽で、私は好きだ。
だが、彼は1966年にシェラ・レオーネのジェラルド・ピノがナイジェリアに来た時の公演を見て衝撃を受ける。
それはジェームス・ブラウン風の演奏で、短いフレーズを何度も繰り返し、次第に熱狂していくものだった。
ハイライフが、その名の通り、中流から上流の階層向けの音楽だったとすれば、ピノの公演は、もっと下層の大衆を相手にするものだった。
そしてフェラは、1969年に渡米するが、時はまさにブラック・パワーが燃え上がっている時で、フェラは、過激派ブラック・パンサーの活動家サンドラと出会い、大きな影響を受ける。
そして、ナイジェリアに戻ると、自分のバンド名を「アフリカ70」とし、自己の居住地を「カラクタ共和国」と名付けて、過激な政府攻撃の歌を歌い、大ヒットを受ける。
もちろん、政権側からは何度も弾圧を受け、フェラ自身も体に傷を受けるが、カラクタ共和国で、27人の妻と生活していたそうだ。
北中さんの話では、妻は27人もいたが、日々のセックスで忙しく、子供は2人しかできなかったとういうのだから、多妻も大変なものである。
1981年に、バンド名を「エジプト80」にした頃から次第に精神的になり、音楽の迫力は衰えたとのこと。
そして、1997年にエイズで死ぬ。
まことに数奇な生涯だが、彼の日本での人気の高さにも関わらず、一度も来日しなかったのは、その言動の過激さ故だろうと思う。
その点、1984年に来日して代々木オリンピックプールで大々的なライブをやったサニー・アデは、能天気で「無害な」ミュージシャンなのだろう。
別にそれはそれで良いと思うが。
この夜のトークを見て改めて思ったのは、フェラのように、イギリス、アメリカ、アフリカと様々な音楽を得て新しい自分の音楽を作ったのだということである。
それは、先日見た映画『最後のマイ・ウェイ』の主人公であり、フランスの大スターでシナトラのヒット曲『マイ・ウェイ』を作ったクロード・フランソワにも大変良く似ているように思う。
クロードは、フランス人の父とイタリア人の母の下の裕福な家庭にエジプトで生まれた。父はスエズ運河会社の人間だったので、1956年のエジプトのナセル政権によるスエズ運河国有化で一家はモナコに逃げる。
彼はフランク・シナトラに憧れ、バンドのドラマーになり、パリに行く。
だが、彼の音楽は「古くて時代遅れだ」と言われ、ジョニー・ハリディーらのツイスト・ブームに衝撃を受けるが、逆にうまく取り入れて、さらに黒人音楽に傾倒して多数のヒット曲を作り、大成功する。
当時日本盤も出ていたそうだが、私も知らなかった。
『マイ・ウエイ』が、クロード・フランソワ作の曲『いつものように』で、それをフランスで偶然に聞いたポール・アンカが、フランク・シナトラのために歌詞を書いて送ったものなのだ。
それも実は1年前の北中正和さんのNHKFMの「ワールド・ミュージック・タイム」で聞いたことだったのであるが。
イベント終了後、打ち上げまで付き合うことになる。非常に幸福な一夜だった。