古川ロッパと言っても、もう知らない人も多い、というよりも知っている人が少ないだろう。
だが、この人は本当に多才な人で、学生時代から「キネマ旬報」等に原稿を書き、素人から役者、歌手、そして声帯模写をやり、自分の劇団を持ち、戦前、戦中はロッパ劇団で大人気だった。
そもそも、声帯模写という言葉を作ったのもロッパであり、戦後石原裕次郎が使って流行語になった「イカす」というのも、ロッパの造語なのである。
その姿、芸能界での位置は、今『笑っていいとも』の終了が大騒ぎになっているタモリに似ているかもしれない。
両者とも早稲田の卒業生であるのは、何かの偶然だろうか。
自分の劇団を持っている点では、三宅裕司にも通じるが、ロッパの場合は、ほぼ通年で劇団(楽団等を含む)をやっていたのだから、スケールが違う。
さて、ロッパは文化人でもあり、大変な読書家だったので、戦後日本が戦時中の軍国主義から解放され、民主主義の世の中になると「俺の時代が来た」と大喜びする。
だが、戦後社会には、ロッパを大いに悩ませるものが二つあった。
一つは、食糧難であり、もう一つは民主化による芸能界でのロッパの「お殿様」の地位の喪失だった。
彼は、もともと華族の生まれで、大変なお殿様だったのである。
よく知られているように彼は大変なグルメで、日記を読むと、いくらなんでも食べすぎだと思うが、食べることと飲むことに執着している。
そして、終わるとマージャンをし、アドルムを飲んで寝る。これで体が悪くならないわけがない。糖尿病と肺結核という、治療法が相矛盾する病気になってしまう。
また自分は、西欧文化を理解している最も民主的な人間だと思い込んでいたが、所詮彼は華族の御曹司であり、お殿様だった。
戦後の日記には、芝居の公演の後、楽屋風呂に大道具の下っ端が、自分より先に入って「無礼者」と怒る場面があったが、ロッパは戦後社会の急変についていけなかったのである。
反対に戦後頭角を現したのが、かつてロッパ劇団、さらには東宝劇団で「馬の足」をした屈辱から、日本を諦めて、満州の放送局に行った森繁久弥だった。
彼は、満州の死地を逃れてやっとのことで帰国し、一時は闇商売等を手を出した後、ムーラン・ルジュで芸能界にもぐり込み、はじめは新東宝映画での珍演、怪演で名をあげる。
その意味では、森繁は、戦争の惨禍と戦後の焦土から立ち上がった戦後日本の象徴そのものだったといえる。
そして、豊田四郎監督の1955年の『夫婦善哉』で映画俳優としても認められる。
敗戦後のロッパの回想によれば、彼の一番の不満は、「最近の喜劇役者はその卑怯さで笑いをとっている」ことで、言うまでもなく森繁のことだった。
昨日見た古川ロッパ唯一の監督作品1954年の『陽気な天国』は、近江俊郎の主演だが、一番笑いを取るのは、ニセ古賀政男で、彼の弟子の森繁だった。
この頃は、すでに森繁は、『次郎長三国志』の森の石松役で名声を得た直後なので、ロッパも仕方なく使ったのだろうと思う。
だが、偽モノで、軽薄で、嘘ばかりつくお調子者というのは、ロッパの森繁への強烈な皮肉が込められている。
森繁が珍演、怪演を見せる野外パーティは、古賀政男の屋敷であり、それを映画のロケハンで初めて見たロッパは驚き、
「自分の家は、ここに比べれば物置だ」と嘆いている。
この大邸宅は、現在は古賀政男記念館になっていて、JASRACはその一部にある。
反対に好意的に描かれているのは、三木のり平で、彼のインテリ性には、ロッパに相通ずるものがあったのだろうか。
また、戦前からの喜劇スターにエノケンもいて、彼も戦後のインフレで劇団が維持できなくなるという時代の変化にさらされたが、エノケンは元が庶民なので、時代と違和感を持つことはなかったようだ。
近江俊郎を追いかけて彼と結ばれる、宿屋の女オテルを溌剌と演じているのは、歌手の暁てる子で、彼女はSKD出身で戦後はロッパ劇団の一員だった。
余計だが、彼女の夫は、GHQにいて、その後日本とアメリカのプロ野球の交流(巨人に外人選手を送り込んだ)に一役をかったキャビー原田である。