昨日のトークイベントで言い忘れたことを帰りのバスの中で思い出した。
それは、よく石原慎太郎がえばっていう「ヌーベルバーグは俺の『狂った果実』をみて彼らの映画を始めた」というものである。
1950年代の末、パリで日活の『狂った果実』が上映され、それをフランソワ・トリフォーが見て驚き、自分の処女長編の『大人は判ってくれない』のヒントにしたのは本当で、彼はどこかで書いていたはずだ。
だが、私はトリフォーが見て驚いたのは、劇中の石原裕次郎、北原三枝らの演技だと思う。
今見ても感じるだろうが、非常に自然で、さり気ない演技なのである。
中では津川雅彦の芝居は、ややくさい気がするが。
なぜ、裕次郎と北原三枝の芝居は自然なのだろうか。
それは監督の中平康が、松竹大船の出身であることに拠っている。松竹の芝居の基は、新派であり、新派の演技術は、芝居をしないことなのだ。
たとえば、花柳章太郎は、いつも台詞をわざとたどたどしく言う、まるで台詞を忘れているのでは、と思えるように。
それが、彼が何百回と演じたはずの劇を新鮮に演技する方法論なのである。
あるいは、新劇系だが、殿山泰司は、いつもこんな映画はやりたくないな、と言う感じで台詞を言い、芝居をしていたが、これも演技のリアリティを保つ術なのである。
松竹の、そうした演技術は、中平を通して『狂った果実』にも行っていたので、フランソワ・トリフォーには新鮮に見えたのだと思う。
別に石原慎太郎先生のお手柄ではないのである。