今日から79年前の1936年2月26日は、陸軍の一部の青年将校が反乱を起こした2・26事件の日である。
秦郁彦先生によれば、日本には「2・26事件産業」があり、毎年この時期になると、新資料が発見されるとのことだった。
だが、今年は出なかったようだ。
もう70年以上前の事件となれば、未発見資料も出尽くしたのだろう。
この事件が与えた影響は非常に大きく、近衛文麿、木戸幸一ら天皇側近の連中も、軍人の暴力に怯えることになり、それが軍国主義の跳梁跋扈の一因にもなったようだ。
だが、この事件の原因と昭和天皇の態度、「予自ら直ちに近衛兵を引きいて反乱軍を鎮圧する」と言った言葉の真意については、必ずしも明確ではない。
それを解くのは、脚本家笠原和夫の説である。
彼は、シナリオ執筆に当たっては、膨大な資料を調査し、多数の関係者からのヒアリングを行った。
その結果、ある関係者からの話として、昭和天皇とその弟宮の秩父、高松、三笠の宮らとは、父親が違うというのだ。
大正天皇には子供ができなくて、他の男子を充てたので、昭和天皇と兄弟は、、皆顔付が非常に違うというのだ。
昔は、後妻や側室によって母親が異なる兄弟というのはいくらでもあったが、お種が違うというのは珍しいと思う。
なんとしても男子を作らざるを得なかった天皇家では仕方のないことだったと思う。
もともと、素質に問題があると言われた大正天皇のお種は残さない方が良いのではと思われ、その上に子ができなくては仕方のないことだったろう。
2・26事件の時、反乱軍の後建てに秩父宮がいたというのは有名な話で、そうなると「昭和の壬申の乱になるので、「そうなっては一大事」と、昭和天皇は、すぐに鎮圧に乗り出したというのだ。
まあ、ありえない話とは言えはないだろうと思うが、DNA鑑定でもしないと真偽のほどは分からない。
笠原和夫の本、『昭和の劇』に出ている話なので、ご興味のある方はお読みいただきたい。