『盲目長屋梅加賀鳶』

CSで録画していた旧作、中村富十郎、中村吉右衛門、中村又五郎らによる黙阿弥の世話物の名作。

冒頭は、加賀鳶らの喧嘩の仲裁に吉右衛門が出てきて目出度しと言うだけで、中身が何もないのが凄い。見た目の美しさといなせさ、連ねの台詞の面白さだけである。

              

ここから一転して話は、本郷の盲目長屋、あんまの道玄(富十郎)は、悪人そのもので、盲目のあんまの妻を売りとばし、姪の子に奉公先の主人が5両の金をくれたことから、逆に伊勢屋に行き、姪を手籠めにしたと脅す。

100両出せというが、そこに町の頭領の吉右衛門が出てきて、嘘を見破り、さらに人殺しの証拠も出す。

だが、ここからが面白いところで、吉右衛門は、富十郎に「手籠めの証拠だという偽手紙」を10両で買ってあげて事を収める。

江戸時代の、近代の法律、裁判以前の町の争いごとの収めかたはこういうものだったのだろうか、法制史的には非常に興味深いことである。

要は、江戸幕府は、非常に小さな政府で、現在は行政が行っていることは、ほとんどが町場で大家、町年寄、頭領などが適宜収めるものだった。

また、平均年齢も低かったので、高齢化に伴う介護、福祉などの問題も多くはなかったと思われる。

まあ、非常に良い時代、社会だったと思え、江戸時代を武士や上層の商人のみが栄え、庶民は貧困にあえいでいたという時代劇は、ほとんど嘘なのである。

これは、明治政府が前時代を悪としたことと、サイレント映画の末期の傾向映画時代に、反体制的な映画が現代劇としては製作できず、その代わりに時代劇として作られたことによっている。

もし、徳川政権が本当にひどかったとすれば、260年間も続くはずがないいのである。

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