先日の平林敏彦さんのお話で面白かったのは、戦前、戦中期に、「四季」「若草」「文芸汎論」「歴程」「VOU」などの文芸雑誌があり、そこでは詩の投稿が活発に行われていたことである。
その詩人同士の雑誌を通しての交流から、後には鮎川信夫が主催する「新領土」などの同人雑誌ができてきたのだそうだ。
あるいは、春山行夫の「詩と詩論」などでも村野四郎、近藤東らが活躍したとのこと。
いずれにしても、戦前、戦中でも意外にも若者の文学表現は、活発に行われていたのである。
そうした中から、密かに歌謡曲の詩を書いていた人がいて、「若草」にいた川俣栄一は『上海の花売り娘』でヒットを飛ばした。
さらに、藤間哲郎という人ももともとは現代詩を書いていたが、歌謡曲に転向し、三橋美智也の『おんな船頭歌』の他、大津美子の『東京アンナ』、松山恵子の『お別れ公衆電話』などの作詞もこの人である。
藤間の家は裕福だったのか、鮎川信夫が居候していた時もあったとのこと。
普通の文学史では書かれていない話が多くて非常に興味深かった。
日本では、現代詩と歌謡曲は、意外にも敷居が低く、フランス近代詩の大家である西條八十には多くの歌謡曲作品があり、『荒地』派の木原孝一もテレビのテーマ曲を結構書いているはずだ。