日本の映画、演劇界には、難病ものというジャンルがある。
恋人、妻や夫、子供などが、ある日突然難病におかされて苦闘の末に死んでしまう悲劇である。
徳富蘆花の『不如帰』は、「人はなぜ死ぬのでしょう、千年でも万年でも生きたいわ・・・」の台詞で大変有名で、浪子と武男の悲劇は新派劇になり、サイレント時代は多数の映画が作られ、逗子海岸には浪子の石碑すらあるようだ。
これは言うまでもなく結核で、当時結核は不治の病で、しかも比較的若者が罹患する率が高かったので、恋人たちに悲劇が起きた。
海外でも同様で、オペラ『椿姫』の主人公の高級娼婦ヴィオレッタも結核で死ぬ。
だが、結核は1950年代以降、抗生物質の普及で急速に先進国では罹患率が低下した。
しかし、日本でも戦後は元結核患者はまだ多く、私が横浜市役所に入った時は、若いころ結核で休職したことがあるといった人が結構いたものだ。
さて、1960年代以降は、難病ものとしては、結核以外のものにせざるを得ず、1964年の吉永小百合と浜田光夫の大ヒット劇『愛と死を見つめて』では、悪性の骨肉腫で、東京オリンピックの最中に多くの若者が吉永小百合の悲劇に涙を流した。
現在は、なんといってもガンで、現在の北斗昌、先日亡くなった川島なお美、さらにやはりガンで亡くなった今井雅之など、まさに難病劇の主人公である。
この劇の残酷なところは、難病劇の主人公が死なないと筋書きが完結しないことである。
先日、ヤクルトの優勝の対阪神戦を見ていると、いきなりBSニュースが入った。
何事かと思うと、川島なお美の告別式とのこと。こんなことが全国民に伝えるべきニュースなのかと思ったが、難病もの劇のエンドマークとしては必要なことだったのだろうか。
難病劇の主人公がいつか死ぬことをどこかで望んでいるとは、テレビ視聴者は非常に残酷なものである。