日本の芸術、文化の世界で、最も異常なことの一つに舞踏がある。舞踏は、基本的にマイナーのまま、世界的にはメジャーになってしまったという稀有な例である。
以前、大野一雄さんの公演について、横浜市のある幹部は、
「あんなおじいさんが、おばあさんのように白塗りしてわけのわからない踊りをしているのが、なんで芸術なのかね、気持ち悪いだけではないかね」と言った。
普通の価値観、美的意識から見れば、その通りだろう。
だが、トランプで、負のカードばかりを集めると最大の点になるように、マイナーそのものがメジャーになったのが舞踏、もしくはBUTOHである。
今回の題名のキャメルは、駱駝で、まさに砂漠を駱駝が行く、大駱駝艦そのものである。
麿赤児は、今回の公演を「金紛ショー+舞踏」と言っており、20ほどの金粉ダンサーと、女学生姿の麿、もう一人の女性の女学生との、やや同性愛的関係、そこに入り込んでくる、かつての日活映画での小沢昭一の学帽を被った大学生のような白塗りの中学生との「三角関係」の交錯である。
交錯毎に大きく音楽が変わり、ビバルディーの『四季』に合わせて劇は進む。
白塗り中学生の出現で、麿と女学生との関係にひびが入るが、中学生はそれをまったく無視している。
だが、最後中学生男が倒れるとき、股間には金色の男根が直立している。
これをどう見るかだが、やはり唐十郎の劇によく出てくる「男と女のすれ違い劇」だろうと思う。
これを見た私の知人は言った。
「かつての女性舞踏ダンサーの舞踏ブス顔がなくなり、スタイルも抜群に良くなったが、これじゃマイナーではなくてメジャーじゃないの」
世田谷パブリックシアター