家に戻り、まず宮藤官九郎の『我輩は主婦である』の続きを見た後、昨日録画した今村昌平の『楢山説考』を見る。
昭和58年の封切時に見たときは、木下恵介の新歌舞伎的様式の方が良いと思ったが、こちらは深沢七郎の『東北の神武たち』との混合であり、今村版もすごいと感心した。
今村昌平は、戦後の日本映画監督では、間違いなく最高峰である。
『東北の神武たち』は、ズンムと呼ばれる、嫁をとれない次男、三男の、神武天皇のような姿のむさ苦しい連中のことで、1957年に東宝で市川昆が映画化している。
このとき主人公を演じたのは芥川比呂志だが、ここでは左とん平。
中年になって、初めて女とやるが、相手の老婆清川虹子の台詞が最高。
「使えば、使えるものだな」
清川は、喜劇女優と思われているが、実は大変上手い役者で、今村作品では『復讐するは我にあり』の、浜松での元殺人犯の老婆がすごい迫力である。
舞台でも、福田善之演出のテネシー・ウィリアムズの『薔薇の刺青』では、年少の峰岸徹を相手の芝居がとても良かった。
坂本スミ子にしろ、『復讐するは我にあり』のミヤコ蝶々にしろ、今村は意外なキャスティングを時にするが、それがいつも最高である。
女優の使い方の上手い監督は、優れた監督だが、今村も勿論その一人である。
この映画は、ほとんど喰うことを題材としており、日本人は縄文時代以来、喰うことに苦闘してきたことがよく分かる。
食い物を盗む一家を生き埋めにしてしまうシーンなど、物凄い。
民俗学者宮本常一の説では、日本の村ではつい最近まで「間引き」をしていたのだそうだから、食い物の問題は大変だったのである。
飽食の時代になったのは、最近の十数年のことなのだ。