『夢のかさぶた』

井上ひさしの新国立劇場での新作、演出栗山民也。『夢シリーズ』の三作目で、最終作。

第二次世界大戦直後の日本、陸軍参謀だった角野卓造が熱海で自殺するが生き残り、東北の美術収集家の旧家に隠れる。
このエピソードは、上野にいたレノン・ヨーコも来たという、共産党の宮本顕冶とも親交があった右翼的美術商が源淵だろう。

その旧家に東北行幸中の昭和天皇が来る話があり、天皇制論が戦わされる。結論としては、天皇は責任を取って退位すべきだったというもの。
「天皇退位論」は、当時保守派にも強くあり、元首相の近衛文麿も、自分の責任を棚に上げ、昭和天皇の退位を主張した。

そして、もう一つ国語教師の三田和代から展開されるのが、主語の存在しない日本語。
日本語は、主語がなくても成立し、どのようにも時代、社会の変化に対応できると言う「無責任性」。

政治学者丸山真男の「無責任体制」論と同じだが、こうした西欧的文脈からの責任論は無意味だと、私は今は思っている。

なぜなら、日本は本質的に西欧型社会ではなかったからだ。
その意味では、アジア、アフリカの部族社会における「王の責任の取り方」から考察されるべきものと思っている。

最近の井上ひさしの劇としては、それほどできは良くなく、私の隣の男性は半分くらい寝ていた。

ミュージカル・ナンバーが多数使用されるが、クルト・ワイルの『日常生活の楽しみのブルース』(『マホガニー市の興亡』)がやはり最高。

客席に、草薙剛が一人で来ていた。
映像で見るとおり、小柄で痩せた青年だった。
アイドルが、こういう劇を見に来るとは、やはり彼はただ者ではない。

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