山本暎一と言えば、『クレオパトラ』や『悲しみのベラドンナ』などの大人向けのアニメ作品の監督として有名だが、私はもともと漫画、アニメが苦手なので、見ていない。
小学3年の頃、近所で漫画の『鉄人28号』を読んでいて、急に目と頭が痛くなり、以来漫画は読まないことにした。考えてみると私は、小学校に上がる前に内斜視になっていて、ために強度の遠視だったので、その上に恐らくは乱視も混じっていて、細かい線や字を読むのが苦手になっていたからだと思う。
京都に生まれ、小豆島島で育った山本暎一は、映画が好きで、東京の高校を出た後、横山隆一のおとぎプロにいたが、手塚治虫がアニメのプロダクションを作ると聞いて、1961年5月になんの伝手もなく手塚の自宅に行く、21歳の時である。この時、手塚は漫画界の巨人として有名だったが、山本は手塚の若さに驚くが、手塚も31歳だったのだ。
この時、山本は、手塚から、「アニメション映画を作るために漫画を書いてきた」と聞き驚くとともに、「入れてください」と懇願し、入社する。
そこで、初期のアニメ試作品『街角の物語に関わった後、テレビアニメの『鉄腕アトム』の製作に突入してゆく。この辺の実態は、他の本には書かれていないことであり、非常に興味深い。さらに、『ジャングル大帝』から、劇場用の『千夜一夜物語』と『クレオパトラ』の成功の裏の徹夜徹夜の不眠不休の製作実態は、まことにすごい。米国のアニメーターが聞いたら、卒倒するだろう。
そして、『悲しみのベラドンナ』と名付けられる作品の製作実態も、信じられないものである。
これは、山本暎一の青春記録であると共に、日本のテレビアニメの青春の記録である。