ネット雑誌の「NEONEO」に『若き日の黒澤明の窮迫』が出た。
詳しくは、内容をご覧いただきたいが、以前からの私自身の疑問に答えを出したものである。
なぜ、黒澤明は、若い頃、プロレタリア美術同盟に入っていたのか、高校卒業後に芸大受験に落ちたとしても、なぜ他の美術大学に行かなかったのか。
彼の父・黒澤勇氏は、なぜ52歳という若さで、日本体育大学を辞めたのか等である。
それは、『日本体育大学70年史』を読むとすぐにわかった。
黒澤勇氏は、日体大を作った日高藤吉郎氏の直属の部下で、日高氏に従って陸軍から日体大とその母体である日本体育会の創立に参加し、実質ナンバー2だった。
だが、大正6年、52歳の時に黒沢勇氏は、それらを辞めている。
その理由は、本文をお読みいただきたいので、ここには書かない。
当然にも黒澤家の経済事情は窮迫し、黒澤明は、金持ち学校だった森村学園から小学校3年で文京区の黒田小学校に転校している。
言うまでもなく黒澤家が、日体大が当時所在し、職員住宅もあった東大井から小石川の大曲に引っ越したからである。
そうした社会の矛盾、非合理性への怒りが黒澤明のプロレタリア美術同盟への参加、活動になっていた。
また、黒澤プロダクションの最初の映画が、官吏の汚職を題材とした『悪い奴ほどよく眠る』だったことの意味もわかってくる。
そう考えると、黒澤明その人に一番似ている人物は、映画『天国と地獄』で、靴職人から会社の重役にもなった三船敏郎の権藤だったと思うのである。