1959年、仁木多鶴子と田宮二郎主演作品だが、田宮には(新人)が付いている。
原作は芥川賞作家の小谷剛で、こんな通俗的なものも書いていたのかと思うと、小谷は医者であり、彼自身の経験か医者としての知見から生まれたものだろう。
脚本は長谷部慶治と相良準で、長谷部は今村昌平の『赤い殺意』等で知られているが、元は東宝の録音部にいた。嘘だと思うなら、黒澤明の『虎の尾を踏む男たち』のタイトルを見るが良い。
東宝ストライキ後、首になり、各社で脚本を書き、今村作品の名作を生んだ最大の功績者だろう。晩年は、日本映画大学で脚本を教えていて、大変真面目で温厚な方だったらしいが、生まれは山形の女郎屋というのがおかしい。そこで見た底辺の様々な女性の姿が作品に反映していると私も思う。
もう一人の相良準は、監督名は楠田清で、黒澤明の『わが青春に悔いなし』の時、同時に準備が進んでいて、「筋が似ている」として問題になった『命ある限り』を監督した人。衣笠貞之助の直弟子であり、共産党員だった。東宝を首になった後は、大映の映画や、長谷川一夫の東宝歌舞伎での衣笠貞之助演出の舞台の脚本を書いていた。長谷川一夫と共産党とは不倶戴天の敵だが、一緒にやっているところが不思議なところである。
さて、映画は、田舎の村で一人しかいない医者の見明凡太郎が盲腸になり、手術後の治るまで、東京から代理として甥の田宮がやって来る。戦争中に疎開していたことがあり、見明の娘の仁木多鶴子とは幼馴染。治まらないのが村で唯一のデパート、要は雑貨屋の三角八郎や中条静雄などの若者。
村は無智蒙昧の輩ばかりで、「栄養を取れ」とか「体を休めろ」と診断する田宮は大変に不評で、仁木からも「村には村の事情がある」と批判される。
そこに貧乏な少年の毛利充宏(小津の『東京物語』で山村聡の息子の兄の方である)が現れ、診察すると重い結核で、母親も同様なのに医療保護も受けていない。彼らは、亡き父親が村の共有林からヒノキを無断で売ったとのことで、村八分にされているのだ。
この辺は、長谷部や相良らしいところである。
村八分は、製材所の社長星ひかるが流した証拠のない嘘であることがわかり、母子は無事施設に入所でき、見明の病気も治り、田宮は東京に戻るが、最後また仁木と一緒に一緒になることが示唆されてエンド。
戦争映画専門の村山が、こんなラブ・コメディーを撮っていたとは驚く。昔の監督は、鈴木清順が典型だが、なんでも撮れる。
木材のことが題材で、小谷は名古屋出身なので、モデルは木曽の奥地あたりだと思うが、ロケは秩父あたりで撮影されたようだ。
秩父というと、永田雅一も関係した「武州鉄道事件」を思い出すが、それについては長くなるので書かない。
因みに、仁木は、大毎オリオンズの30勝の左腕投手小野正一と結婚して引退したが、今はお二人とも亡くなられているようだ。
衛星劇場