昔、ディランの英語の伝記を読んでいた時、
「ボブ・ダイランって誰れだ?」と聞かれたことがある。1973年のことだ。
当時、ディランはその程度の知名度だったが、今やノーベル文学賞を受賞するまでになった。
このドキュメンタリーは、彼がミネソタからボブ・ディランの名(勿論、本名ではない)でニューニョークに出てきて、まずはフォークの世界で有名になり、次第にポピュラー・ソングの世界でも知られていく過程を、時代の推移と共に描いたもので、関係者の証言もおおむね正確だろう。
彼に影響を与えた、ピート・シーガー、ウデイ・ガスリー、そして共産党員だった彼の恋人のについてもきちんと描いている。
私は、多くの人ほどボブ・ディランは好きではないが、アルバムは何枚か持っている。
これを見て、結構他の歌手で歌われている曲が彼のものであることを知った。それだけ、フォークのみではなく、ポピュラー・ソングとしての普遍性があったことを示すものだろう。
例えば、ジョニー・キャッシュの「イッツ・エイント・ノー・ミー・ベイビー」は、かなりヒットした曲だったが、ディランのものだった。
ただ、この映画で描いていないことは、1960年代のニューヨークのフォーク・ムーブメントの興隆の前に、ビート・ゼネレーションがあり、そうしたカウンターカルチャーの見直しの動きの中にフォークもあったことだが、これは私の説で、公認の説ではないので、仕方のないところだ。
来週は、やはり彼についての作品の『ドント・ルック・バック』も上映される。
この館の代表の八幡温子さんは、ディランがお好きなのだろうか。
横浜シネマリン
コメント
公認の説では?ニューヨークの当時のFugsやHoly Modal Roundersなどのフォークグループも、その流れにあると思います。特に歌詞の面でディランがジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグに影響を受けたことは、似たようなタイトルがたくさんあることからも明白です(今でいう、リスペクトに近いものでしょう)。サブタレニアン・ホームシック・ブルースのPVで、ディランのバックに映っているのはアレン・ギンズバーグです。
バーズによる「ミスタータンブリンマン」はビルボードのチャート1位など、ヒット曲はたくさんあります。ほかにもジミ・ヘンドリックスによる「見張り塔からずっと」とか。ちなみにジョニー・キャッシュは「イット・エイント・ミー・ベイブ(It ain’t Me, Babe)」です。73年はディランが8年ぶりにツアーに復帰する前年ですが、当時はアメリカではまさに神でした。当時の日本とアメリカのロック観みたいなものは、似たようで、評価の面ではすごい違いがあったと思います。今よりも海外情報がとても少ない時代でした。
武田鉄也がテレビで「ボブ・ダイランというフォーク歌手がいるっちゃ」と、海援隊を始めるきっかけについて話してたのを見たことがありました。
ありがとうございます。
「イッツ・エイント・ノー・ミー・ベイビー」では、二重否定になってしまいますね。
ダイラン云々では、昔崔洋一が、テレビでビン・ラディンのことをビン・ディランと言っていたことを思い出しました。やはりディランというのは大きな名前だったのですね。
「ディラン」は詩人のディラン・トマスからとったというのが定説です。本名はRobert Zimmerman。ユダヤの名です。ジョン・レノンは「ゴッド」の中で、”I don’t believe in Zimmerman.”(俺はディランを信じない)と歌いました。
二重否定は英語で、もはや普通に使われます。歌詞でいえば、いちばん有名なもののひとつが、もう半世紀以上も前のローリング・ストーンズの”I Can’t Get No Satisfaction.”(サティスファクション)でしょう。マービン・ゲイとタミー・テレルのデュエットで有名なヒット曲”Ain’t No Mountain High Enough”(エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ)なんてのもありました。
ディランのノーベル文学賞については、これまで文学的評価の点でまったく無視されていたビートの作家たちに、ようやく陽の目が当てられた、と受け取っています。