『夜叉が池』が上映されない原因が分かった

横浜みなと映画祭が開催されていて、横浜を舞台に多くの作品を撮った篠田正浩監督の『乾いた花』が横浜シネマリンで上映された後、枝広君とのトークショーがあった。

『乾いた花』を最初に見たのは、多分高校生の時で、池袋の人生座だったと思う。

ビデオでは何度も見ているが、映画館で見るのは久しぶりで、やはり凄いと感じた。

トークの中で、映画に出てくる横浜の福富町、曙町あたりの旅館街は、セットなのかロケなのか長い間疑問だったのだが、ロケだったと言われた。

当時、赤線が廃止された後で、そうした青線地帯も閑散としていたので、撮影できたという。

また、製作がにんじんくらぶになっているのは、当時にんじんくらぶは、大作の『人間の条件』を作っていて、資金に困っていたので、急遽石原慎太郎原作で篠田正浩に監督作品を作ってくれとの要望から始まったとのこと。この日には話に出なかったが、急遽撮影することになったので、松竹大船では撮影できず、目黒の柿の木坂にあった教配スタジオで撮影された。

この作品では武満徹の音楽とともに、小杉正雄のカメラと戸田重昌の美術が凄い。

さらに、この時期横浜で撮影した映画が多いのは、モータリゼーションの急速な進行で、東京では道路上にカメラを据えることが非常に難しくなったのに対して、横浜ではそうでもなく比較的自由に撮影ができたからだとのこと。

終了後、私は、映画『夜叉が池』がなぜ上映もDVD化もされないのかを聞く。

私は公開時に、シネマリンの反対側にあった横浜松竹で見て、結構面白いと思ったのだが。

監督から言われた理由は、あの作品は坂東玉三郎が実質的なプロデューサーだったが、完成後、

彼は「自分が男に見える」として不満で、そのためにDVD化を許さないのだという。

上映もないのは、松竹がそうした玉三郎様の意思を「忖度」しているからだろうとのこと。

へえーと思うが、われわれから見て『夜叉が池』の玉三郎様(二役)は、ほとんど女性にしか見えないのに、玉様のご不満は非常に不思議に思える。

役者というものはそうしたものだと言えばそれまでだが。可愛いと言えば実に可愛いものでもある。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. YROOM より:

    また映画館の事でしつこいようですが、ご容赦ください。「夜叉ヶ池」を横浜で上映したのは横浜ピカデリーです。自分の鑑賞記録で確かめました。Wikipediaで「横浜オデオン座」を検索すると旧オデオン座の横浜松竹が閉館したのは1973年の5月となっています。たしかしばらくの間、横浜で松竹の封切り作品を見るのが不便だった記憶があります。1977年の2月に「張り込み」と「砂の器」の二本立てを横浜松竹で見たと記録にありますから、この頃に日の出町駅に近い旧横浜大映の映画館が松竹の作品を上映するようになったのだと思います。ここはモギリの叔母さんの態度が最悪で、映画サークルにお招きした撮影監督の坂本典隆さんと京浜東北線の中で嘆き合いました。

  2. その通りで、私の記録も10月20日に横浜ピカデリーで見ています。
    ただ、1976年2月に『君よ、憤怒の河を渡れ』を見ているのですが、横浜松竹になっています。いつか館名を変えたのでしょうか。
    1977年3月に『キャリー』を見ているのですが、これは横浜ピカデリーになっていました。ずっと後ですが五社英雄の『2・26』も、ここで見ていますが、当時はどういう名称だったのでしょうか。

    もぎりで良い人なんていたでしょうか。
    当時、東映の岡田社長が、「入場しても、ありがとうございますがないのは映画館ぐらいだろう」と言っていて、その点ではシネ・コンは良いですね。
    さらにシネ・コンの良いところはピントが合っていることですね。

  3. YROOM より:

    私は「夜叉ヶ池」は横浜松竹で見たというコメントを読んで、それは違うのではないかと書いただけです。「君よ、憤怒の河を渡れ」に関しては旧大映の映画館がその時期から横浜松竹になっていたのかも知れません。今度、図書館で当時の‘ぴあ’を調べてみます。また、その時期は「ジョーズ」がロングラン上映されていて、私は1975年の12月に横浜ピカデリーで「ジョーズ」を見て、1976年の3月にも同館で「ジョーズ」を見ています。「226」は当時は見ていませんが、松竹富士の配給なので横浜ピカデリーで上映したと思われます。1962年に「荒野の3軍曹」を見て以来、横浜ピカデリーは一番身近な映画館でした。閉館まで館名が変わったということはほぼないと思います。念のため60代以上の横浜の映画ファンの人に確認してみてください。

    別にモギリに良い人は期待していません。ただ、入場券を切って半券を渡すという単純な作業の時にいつもなんらかの不愉快な思いをさせてくれた珍しい映画館のひとつでした。