1963年に渋谷実監督で作られた松竹作品。主演はアイ・ジョージと岡田茉莉子。
アイ・ジョージは、『ガラスのジョニー』の大ヒットで、日活と東映で競作された他、羽仁進の『充たされた生活』にも出ていて、特異な風貌が人気だった。
ここでは、キャバレーで支配人佐藤慶を傷つけ、刑務所の入ってアイ・ジョージが出てきたところから始まる。
彼は、「組に戻れ」と言う三国連太郎に対し、彼の妹の岡田茉莉子に赤子ができたので、組には戻らないと出ていく。
薬剤師の岡田は、団地近くに薬局を開き、アイ・ジョージも真面目にコツコツとやることを誓う。
だが、駅前には、団地でPTA会長の菅井一郎と組んで薬局を繁盛させている加藤嘉がいて、岡田の店には客は来ない。
団地には、独身でヤミで金貸しをしている猫屋敷の都蝶々の他、双眼鏡で対岸の団地の部屋の情事を覗くのが趣味の菅井一郎と奈良岡朋子夫妻など変な連中ばかりがいる。
要は、おかしな連中であり、これは渋谷実の最高傑作『気違い部落』と同じである。
団地も気違い部落だという、渋谷の批評である。
こうした渋谷実の批評性は、大島渚の『飼育』とも同じであり、渋谷の日本社会への鋭い批評性、ブラック・ユーモアは、川島雄三をはじめ、篠田正浩や大島渚に影響していると思う。
岡田の店はなかなか上向かないが、ある日団地の部屋にビラを入れていたアイ・ジョーイが、ガス自殺未遂の女性を助けたことから、一転して店は繁盛し始める。
だが、そこに対立する組の親分を殺した三国連太郎が逃亡してきて、菅井一郎の部屋に立て籠もる。アイ・ジョージも呼び出され、彼は三国の逃亡を嫌々助けるが、三国は刑事の須賀不二夫に射殺されてしまう。
ここは、後の金嬉郎事件のような立て籠もり事件を予見したようにも見える。
岡田の赤ん坊が、都蝶々から押し付けられた黒猫に殺されたことから、アイ・ジョージが猟銃を持って猫を追い回す場面もあり、団地の人間から顰蹙をかるが、それも何とか無事収まるかに見える。
だが、アイ・ジョージは、「こんなところにはいられない、出ていこう」と言う。
しかし、岡田は「どこに行ったって同じよ」と言い、二人が抱き合うところでエンド。
この夫婦の孤立、孤独感は渋谷実の松竹大船と日本映画界での孤独感であり、彼は次第に受け入れらくなってた。
今、、見てみると前作の『もず』や、この作品当たりが最後のピークで、次の『モンローのような女』では、完全にだめになる。
アイ・ジョージが猫を殺そうとするなど、『気違い部落』と同様に地上波では放送できない作品であることは、渋谷実にとって不幸である。
渋谷は、松竹本社でもファンがいたとのことで、非常に期待されていた監督だが、弟子は作らず、木下恵介のように自分のグループも持たなかったので、最後は孤立して行ったようだ。
集団主義の日本では珍しい監督である。
衛星劇場