私の中学、高校の時の友人にNというのがいた。彼の父親は、簡単に言えば労働者だったが、密かに発明をしていて特許を取っている人だそうで、今の言葉で言えば一種の起業家だったとなる。その方は、日本映画が大変に好きで、「黒澤明の映画は絶対に見る」と言い、実際に見ていたそうだ。
なぜだろうか。
それはこので私が再三書いているように、黒澤明がプロレタリア芸術家だったからだと思う。彼の作品に偉い人は出てこない。
出てくるとしても脇役であり、主人公は市井のただの人である。
『天国と地獄』の主人公の三船敏郎は、製靴会社の重役だが、元は靴職人、昔の言葉で言えば職工である。刑事も、志村喬や藤田進の幹部もいるが、活躍するのは現場の刑事の仲代達矢であり、偉い人ではない。こうしたことを若い人はよくわかっていないのではないかと思ったのは、次のようなネットの記事を見たからである。
「名作と共に、踊りたい」
黒澤明は、日本でも傑出した名監督であり、そのキャリアは戦後日本の歩みと、その社会的な知的需要に基づき、リアリズムに徹した名作を作り続けて来た。無論、名監督にも、良作と駄作はあるが、それは、観客動員数という、大衆の評価に負う処が大きい。実際には、大監督の権威に弱いのは、評論であり、映画製作会社の要請に応じて、大作には異論を呈さない、という事が、無言の密約になっている。だから、SNSの時代には、一億総評論家、と言える事が出来るし、評論も企業権力ではなく、大衆と共に歩みを取る事が、要されるのではなかろうか。
黒澤に対しては、正直に言って、異論や批判は差し挟んで欲しくない。僕の世代にとって、黒澤は身近な職人ではなく、既に巨匠であり、天を往く人であった。完成された伝説は、評論と黒澤ファンの大衆とが作り出して来たものだが、次世代にとっては、伝説に新たな傷は要らないのだ。それよりも、既に完成した時代をさらに華やぎを添える賛歌こそが、黒澤伝説への期待であり、映画を機軸としたポピュリズムなのである。つまり、「人間黒澤明」を、僕らの世代は知らない。だからこそ、個人的な毀誉褒貶ではなく、クオリティの高い名作に対する、一種の幻想じみた絶賛が当たり前なのである。だから、徴兵忌避や自殺未遂、「トラ!トラ!トラ!」の奇行といった、黒澤の抱える瑕疵には関心が無く、また、芸術として評価しれども、人間への深入りは、全く望むものではない。甘い騙しがあってもいい、ただ、「踊りたい」と考える人々に、冷徹な視点による冷や水は、如何にも無粋ではあるまいか。