2009年に、私は次のように書いた。
「相撲は演劇である」
私が言っているのではない。
日本民俗学、芸能史の泰斗・折口信夫先生が、きちんと書いておられるのである。
「この相撲というものは、演劇と関係なさそうなものでありながら、やはり一種の演劇なのである。つまり、神と精霊の争いを表徴するものなのである」 折口信夫全集 ノート編 第五巻 P392
つまり、相撲は、本来神と精霊の争いであり、その年の、あるいは村の豊穣、吉凶を占う神事なのだそうだ。「一人相撲」という言葉があるが、これは本当にあり、人間が一人で神と相撲を取り、勝った負けたの結果で、その年の農事の吉凶を占うものである。だが、その占いは、大抵は初めから決まっていて、村の意向に沿うような結果になるのだそうだ。
あの大相撲の土俵は、まさに舞台であり、その上に吊り下げられている大屋根とその四隅を巻いている布は、歌舞伎舞台にある一文字と同じ起源なのだ。
だから、演劇である相撲に「八百長」がつき物なのは当然で、その村の農事の吉凶の占いと言うのは、その集団の集合的無意識を表現するものである。
要は、八百長である。
だが、よく考えれば、演劇は常に八百長である。
死者は、毎日死に、ロメオはジュリエットに毎日出会って恋に落ちる。
要は、八百長にも良い、上手い八百長と、下手な八百長があるにすぎない。私は、相撲については、「観客が望む八百長は許される」という立場である。
昔、貴乃花と武蔵丸が千秋楽に戦い、貴乃花は勝ったがひざを大怪我した。
そして、優勝決定戦になり、そこで貴乃花が勝って優勝し、小泉純一郎お調子者総理が
「感動した!」と言ったが、このときの武蔵丸は役者だったと思う。
あそこで、もし武蔵丸が勝ったなら、彼は「暗殺」されたに違いない。
それが、八百長であり、みなが望む方向に勝負がつくという意味である。
武蔵丸は、かなり力を入れているように見せて、最後見事に負けた。
あれは、良い八百長の例である。
貴乃花については、よく「ガチ相撲」が言われ、それを称賛する人が多いようだが、私は賛成できない。自分が、そのために負傷して引退に追い込まれたように、ガチ相撲は間違いである。
要は、普通には分からないように、時には手を抜いて「芝居」をするというのは、プロである以上許されると思う。このガチ相撲の間違いが、例の理事選挙で多くの力士の同意を得られなかった原因だろう。
プロ野球でも、シーズンの後半戦になり、個々のゲームの途中で試合の行方が決まった時など、ベテラン選手はほどほどにプレーすることがある。こういう時は、新人を使えばよいのであり、彼は認められたいために全力でプレーするはずだからだ。
あるいは、個人の記録の方に行ってしまうことがあるが、一年中プレーして生活しているプロとしては仕方のないことだと私は許容している。