『日本映画と語り物文化』 発掘された『乃木将軍』のフィルムを中心に

2012年に亡くなった俳優小沢昭一は、膨大な芸能資料のコレクターで、死後早稲田に寄贈された。

中に1935年の日活の浪曲映画『乃木将軍』があり、これはトーキーをわざわざ再編集してサイレントにしたもので、それは地方にはトーキーのない館もあり、また弁士の存在もあり、サイレントで上映した作品だった。

まずは、シンポジウムで「映画と語り物」についてで、琵琶と浪曲、乃木伝、寿々木米若、さらにトーキーの複数の方式などで、意外にも光学録音とは別にディスク式トーキーがあり、音質はこちらの方が良かったとのこと。

そして、片岡一郎さんの映画説明と神埼えりさんのピアノによる『乃木将軍』の上映。

これは、山本嘉一の乃木が、ある公園で日露戦争で父親が戦死し、貧困で弁当を持ってこられず虐められている少年を見る。その夜、乃木は辻占売りの少年を目撃し、辻占を全部買ってあげ、車引の杉狂児に少年の家を聞く。

そして、ある日山本は長屋の少年と母親の部屋に来て、仏壇に手を合せ、多額の香典を置いていく。少年は、日露戦争写真集から、山本が乃木であることを知り、狂喜する。杉の引く車で乃木は去ってゆく。

山本嘉一は、水戸黄門役で有名で、ここでは乃木将軍が水戸黄門に置き換えられているわけだ。また、杉の演技は、非常に軽く上手い。

休憩後は、川島信子さんによる薩摩琵琶の乃木とその妻の、明治天皇崩御の時の「殉死」の模様。これは字句が字幕で表現されてたが、実に凄い文語表現。

そして、矢野誠一さんと早稲田の児玉先生によるトーク。

小沢昭一は、矢野さんの麻布中学の先輩で、中学から大学に行けなかった連中が学内に4年生部屋を作っていて、教員からは「近づいてはいけない」と言われていた部屋の一員だったこと。小沢のアドリブのように見える台詞もほとんどが事前に考えられていたものであること。小沢には、映画会社から急な配役がよく来て、貼ってある紙を湯気で取ると、たいていは三木のり平だったとのこと。

最後は、早稲田卒で最初の浪曲師の東家一太郎と曲師東家美による『乃木将軍』の上映。

これは片岡一郎さんと同じだったわけだが、今回はこの方が映画にぴったりと合っていた。それは、この映画が浪曲映画として再編集されたためだろうと思う。

質問の時間があったので、私は「1930年代の日本のトーキー映画の初期に、浪曲映画が流行した理由には、当時の日本のトーキーの音質の問題があったのではないか。溝口健二監督の『ふるさと』では、音楽はトーキーだが、俳優の台詞になると字幕になってしまうが、これは俳優の台詞がきちんと再生できなかつたことが理由で、その点浪曲師は声が通るので、浪曲映画の流行になったのではないか」と

「ディスク式トーキーの問題点は何だったのか」をお聞きしておく。

いずれにしても、「浪曲映画」に示されるように、初期の日本映画では、浪花節、講談、落語等の大衆芸能の影響が大きかったことが明らかにされた。マキノ雅弘、伊藤大輔らの娯楽アクション映画はみなそうだったと思う。

一方、小津安二郎を筆頭に、伊丹万作、山中貞雄らの「知的作品」にあっては、俳句の影響が大きかったのではないかと言うのが私の考えで、いずれ証明してみたいとふたたび思った。

帰りは、一回り下の小林君と一緒に高田馬場に出て、ミャンマー料理の店で飲み、私は地下鉄で帰る。

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