『三木鶏郎回想録』 平凡社

三木鶏郎とトリロー工房と言えば、戦後のラジオ、テレビの初期に大活躍した作家を輩出したスタッフである。
テレビCMの第一号小西六の『ぼくはアマチュアカメラマン』も鶏郎の作であり、その他有名な曲では楠木トシエの『田舎のバス』など多数ある。
彼の回想録で、生まれたときから詳細な記述で、昭和史でもある。

東京の千代田区に弁護士の息子として生まれ、曉星中学時代から音楽に親しみ、浦和高校から東大に進学し、そこでは音楽部で活躍する。
一応、日産化学に入社したが、そこでもブラスバンドを指揮し、士気高揚に役立てる。
軍隊時代も面白く、既婚夫人との恋愛劇は、不倫だがまるで芝居のようで、その間に諸井三郎に作曲法を習う。
ここまでが1巻目

戦後、諸井三郎が関係していた音楽協会の雑誌を売り込みに行き、逆に吉田信音楽副部長から作曲ができないか聞かれ、自作曲を披露したことからNHKで音楽番組を担当することになる。
三木のり平との出会いも傑作で、本名の田沼則子では、女優と間違えられるとのことで、三木鶏郎のグループに参加してきたのり平から芸名を作ることを相談される。
則子をそのままのり平にすると、のり平は、三木の子分になるからと、三木を付けて三木のり平になる。
そして、「三木一門になったのだから、刺青を入れましょう」と三木のり平は言う。
そういう封建的なものが大嫌いだと言う三木鶏郎に対し、三木のり平は、刺青が大好きで、「昔好きな女の名前を腕に入れたので、消すのが大変だった」と言う。
三木のり平は、鶏郎の番組で注目され、そこからコメディアンとして大活躍することになる。

『日曜娯楽版』のシナリオやGHQ,さらにNHK、政府とのやり取りも詳細に書かれている。
日曜娯楽版は、丁度吉田内閣の時代に当り、次第に政府から、その強烈な風刺、皮肉に批判が来るようになる。
そして、昭和29年4月25日の放送に佐藤栄作内閣官房長官が激怒し、当時の古垣会長に抗議が来て、日曜娯楽版は中止になる。

その後は、ラジオで始まった民間放送、さらにテレビで大活躍する。
永六輔、野坂昭如、さらに一昔前血液型で大ベストセラー本を書いた能見正比古らもトリロー工房の出である。
役者では、左とん平、逗子とんぼらもそうである。

普通のところではない本だろうが、横浜市では中央図書館にCD付きであった。
戦前、戦中、戦後の貴重な証言である。

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コメント

  1. umigame より:

    『三木鶏郎回想録』 平凡社
    「田舎のバス」は楠トシエではなく、中村メイ子だったと思います。でもCMソングの草分けだった三木氏の歌は、楠トシエはずいぶん歌っていますね、”かーんかーんカネボウ~”とか”船橋ヘルスセンター”とか。東京帝大法学部在学中に東大オーケストラの指揮をやっていたことも重要なキャリアのひとつでしょう。
    とにかく多彩な人でしたから。私もご本人には直接会ってはいませんが、市ヶ谷にあったこの人のプロダクションの関係の仕事はしたことがあるので、懐かしい名前です。当時三木氏は引退してハワイのマウイ島の山の中腹の夏でも涼しいところに別荘を構えて住み、桜の季節になると日本へ帰ってくるという暮らしをしていたそうです。趣味人として最高の人生ですね。

  2. さすらい日乗 より:

    そうでした
    『田舎のバス』は,中村メイコでした。
    これは、大ヒット・ソングで、町のお兄ちゃんがよく歌っていました。
    ともかく現在に続く、戦後日本の文化の特徴である、「アマチュア性」を作り出したのは、この人だったと私は思います。