『オペラ!/? ネクスト・ジュネレーションへの試み/から』

神奈川県国際芸術フェスティバルのシンポジウムとしてオペラについてのが行われたので見に行く。
3部構成で、1部は建築家の山本理顕、美術作家のやなぎみわ、そして作曲家で、県民ホール・音楽堂の芸術監督の一柳慧のディスカッションだが、この山本とやなぎは、ほとんど素人で、一般論で少しも面白くない。こんな連中を選定した宮本の見識を疑う。
だが、最後にお話しされた一柳慧先生は流石で、言われることが一々ごもっともであった。
そして、マレット、杖などのいつもの器具を使ってのプリペアド風のピアノは、もちろn最高だった。
言って見れば、映画『暗殺』の武満徹の繊細で鮮烈な音楽のようである。
『暗殺』は、一柳ではなく、高橋悠治と山本邦山だそうだが。

私は、一柳慧の曲を聞くのは3回目で、はじめはテレビの「11PM」の大阪イレブンでの前衛を紹介する番組で、ピアノを弾いた。
2回目は、1990年代のサントリー・ホールでの彼の古典的な曲『ベルリン頌歌』だったが、この時は、「これが一柳なの」と古典への回帰に驚いたものだ。今回が3回目で、実際に一柳の弾くピアノを見たのは初めてだった。

彼も言っていたが、1950年代からやっていた連中は皆死んだか、活動をしていない。
武満徹、黛敏郎、八木正生、寺山修司、篠田正浩、土方巽など、当時は確かにジャンルを超えた交流があり、若き前衛芸術家同士の活動があった。
今も無意味に元気なのは、馬鹿げたことに石原慎太郎だけだろう。

2部は充実していて、田尾下哲と菅尾友という若手オペラ演出家と宮本亜門の鼎談で、宮本のレベルが低いのはここでも明らかにされた。
田尾下も、菅尾も、実は音楽大学出ではなく、海外でオペラ演出の助手をして経験を積み、今は日本でも活躍されているらしい。
こういう若者が出てくる時代になったのだと思うと時代の変化を感じる。

最後は、茂木健一郎と宮本亜門の対談で、まるで漫才だった。
だが、この漫才で唯一つ意味があったのは、来月宮本亜門が演出する『蝶々夫人』に茂木が言及した件で、
「蝶々さんをゲイにしたら」という発言だった。
これは亜門を揶揄した台詞かどうかは分らなかったが、蝶々夫人をゲイにするというのは、面白いアイディアである。
そして、最後でピンカートンに騙されたと見ていた観客も、本当は蝶々さんはゲイで、それに実はピンカートンも騙されていた、という日本のゲイの芸のすごさを知らしめる。

茂木健一郎の話を聞くのは初めてだが、こんなに観客に媚びる人とは知らなかった。
ただ一つだけ良いと思ったのは、「新国立劇場の観客がお義理で、良くない」とのことで、これはそうである。
新国立の演劇の客がひどいことは以前から私が言っていることだが、オペラの観客もそうだったのだ。
だが、これは仕方あるまい。
明治以降、音楽が知的教養としてしか伝えられてこなかったクラシックでは当然のことで、今やジャズもそうなりつつあるのだ。
神奈川芸術劇場

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