東宝、そして円谷英二の特撮は、なぜ優れていたのだろうか

今年は、ゴジラ生誕60周年とのことで、大変喜ばしく、新作も公開される。

だが東宝、そして円谷英二の特撮は、なぜ優れていたのだろうか、あまりきちんと考えられていないように私は思える。

せいぜい、『ゴジラ』の先駆として戦中期の『ハワイ・マレー沖海戦』『加藤隼戦闘隊』『雷撃隊出動』の素晴らしさが語られる程度である。

だが、それではなぜ1942年に突如として名作『ハワイ・マレー沖海戦』ができたのだろうか。いくら円谷英二が天才だと言っても、いきなり特殊撮影の名作ができるはずはない。

そこには、多数の試作的作品の経験が積み重ねられていたのである。

1939年、東宝は砧の撮影所の上の、海軍から払い下げを受けた土地に、東宝の役員の出資を基に合資会社航空教育資料製作所のスタジオを作った。これは、言わば「秘密スタジオ」で、砧の元の東宝撮影所からも少し離れていたので、東宝の社員でも知らない状態だったそうだ。

                                  

     この東宝第二撮影所が、戦時中の航空教育資料製作所であり、戦後は新東宝を経て、現在では大部分が日大商学部になっている。

この不思議な撮影所は、一体何を製作していたのか。

これは、私が命名したのだが、兵隊に軍事技術を教える「軍事マニュアル映画」を密かに陸海軍からの予算を基にして製作していたのである。

その中心人物はもちろん円谷英二で、彼の特殊撮影技術を駆使して、1945年までに51本の中編映画が作られたそうだ。

例えば、1941年に作られた『水平爆撃』3部作がある。これは鈴鹿航空隊での実写等を混ぜた作品で、明らかにハワイ真珠湾攻撃のマニュアル映画だと思われる。

その証拠に、1941年12月8日の、真珠湾攻撃の成功のすぐ後、海軍からは東宝の大幹部森岩雄のところに、海軍中尉から感謝の電話があった、とうしおそうじの本に書かれている。

このように、東宝は、主として海軍からの要請に応えて多数の「軍事マニュアル映画」を作っていたのである。

容易に想像できると思うが、軍隊からの発注、注文の仕事は、金に糸目をつけないのが世界的に普通であり、この航空教育資料製作所でも、潤沢な予算で、特殊撮影が行われ、技術が進歩していったと想像される。

また、軍の他、三菱重工業、中島飛行機、川崎飛行機の飛行機製作の各社からも、「航空戦果シリーズ」として、各社の金で、工場での製作から、南方での各戦隊の活躍の様子などが実際に撮影されて、1本の作品として各社に納入されていたのである。

これは工場の労働者の士気高揚のために上映されたが、中には『大いなる翼』のように一般に上映されたものもあった。

このように、東宝は戦時中は、一般に言われるように、戦意高揚映画を作ったどころではなく、むしろ軍に積極的に協力した一種の「軍需企業」だったと言った方が正しいと私は思うのである。

もちろん、このことを殊更に批難しようとは思わない。そうしなければ、苛烈な戦時体制下にあって生きていけなかったのだから、仕方ないと私は思う。

ただ、戦後、戦争責任の追及を恐れて、フィルムはおろか、シナリオ、スチール写真、その他の資料をすべて焼却したのはひどいことだと思う。

戦後、円谷英二は、こうした映画を作っていた罪を深く感じて自ら東宝を辞めてしまう。まことに潔いことだったが、その後彼は公職追放になる。

映画界では、森岩雄、城戸四郎、永田雅一など、各社の代表が占領軍によって公職追放されたが、現場の技術者で該当したのは、円谷だけである。

さらに、戦後東宝では「来なかったのは戦車だけ」と言われた大ストライキが起きるが、これも実は航空教育資料製作所を抱えていたからである。

普通、東宝には山本薩夫、今井正、宮島義勇らの日本共産党員がいたから大争議がおきたと映画史には書いてある。

これは大間違いなのだ。日本共産党員など、松竹、大映などにいくらでもいたのに、そこでは大争議は起きていない。

東宝で大ストライキが起きたのは、この航空教育資料製作所の存在の性なのである。

敗戦時、そこには約230人の職員がいたが、戦争の敗北で即、注文主である帝国軍隊は消滅してしまった。

230人は、完全な余剰人員となったわけで、経営側からみれが馘首は当然で、長期のストライキになったのである。

以上については、3年前に出した『黒澤明の十字架』で、一部触れたのだが、ほとんどの人がこれに気づかなかったようなので、今年中には再度取材して書き、1冊の本として出すつもりである。

それをご期待いただきたい。

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